もっと詳しく
なぜ受けなかった!? 革新的&個性的だったはずが…大失速したクルマたち

 多くの人にとって必要だが、決して安くないモノの代表が自家用車だ。こうした理由から、こだわりのあるクルマ好きを除き、一般的には個性は薄いが堅実で信頼性の高いクルマが選ばれている。

 だが、そんな“普通車”のなかには異端のモデルも存在する。ここでは、特殊なコンセプトを採用したクルマや国内で製造された海外モデルなど、登場前には大いに期待されていたものの、実際には成功できなかった悲運のクルマたちを見ていきたい。

文/長谷川 敦、写真/トヨタ、ホンダ、マツダ、FavCars.com

【画像ギャラリー】姿を消したことが惜しまれる名車たち(12枚)画像ギャラリー


あまりの革新性に時代が追いつかず?「トヨタ iQ」

なぜ受けなかった!? 革新的&個性的だったはずが…大失速したクルマたち
リッターカーでありながら革新的なコンパクトさで登場したトヨタ iQ。後に1.3リッターモデルも追加されるが、それが売り上げ向上にはつながらなかった

 主に街中の短距離移動に用いられるクルマをシティコミューターと呼ぶ。シティコミューターの特徴はコンパクトなことで、1、2人の搭乗と、それほどたくさんの荷物を積まないことを前提にデザインされている。その代表が1997年に登場したスマートで、その全長の短さと、思いきりのいい2人乗り設定などで注目を集めた。

 そんなスマートをお手本にしたかのようなモデルがトヨタからリリースされた。2008年発売のiQは、3mを切る全長ながら、3+1のシート構成を実現し、車幅は5ナンバー枠の1680mmと、なんとも変わった縦横比のモデルだった。

 軽自動車ではなく普通車で、初期モデルには1リッターの3気筒エンジンを搭載。それなのにホイールベースはぴったり2mというiQは、市街地での走りやすさや駐車時の利便性などを追求した結果、こうした“寸詰まり”フォルムになったわけだが、既存の同系統モデルに対して大きなエンジンと余裕のある車幅により、他にはない強烈な個性を発揮した。

 実際のiQは、その縦横比からは想像できないほどの走行安定性が確保され、発表直後はメディアからの評価も上々だった。2008年の日本カー・オブ・ザ・イヤーも受賞しているが、実は同賞の発表はiQの販売よりわずかに早く、それだけこのiQが期待されていたことがわかる。

 だが、期待を一身に背負って登場したiQの販売成績は振るわなかった。発売当時の日本国内での価格はローグレードで129万円と同時期の軽自動車より高く、さらに普通車のコンパクトカーでは同じトヨタのパッソをはじめ、強力なライバルが数多く存在していた。

 全長を切り詰めすぎたゆえに荷物を載せにくく、車体価格や維持費では軽自動車に対して不利になるiQの国内販売は伸びず、頼みの綱のヨーロッパでもあまり売れなかった。そうした理由もあり、iQの販売は2016年に終了となった。

 すでに多くの軽自動車が事実上のシティコミューターとして活躍している状況では、いかにiQの出来が良くても、市場に定着する余地はなかったのかもしれない。

打倒プリウスを目指しながらもシリーズは終焉に「ホンダ インサイト」

なぜ受けなかった!? 革新的&個性的だったはずが…大失速したクルマたち
シリーズ最後のモデルになった3代目ホンダ インサイト。インパクトの大きかった初代モデルに比べると普通の外観になったが、個性が薄れてしまったとも言える

 トヨタが1997年に発売した世界初の量産型ハイブリッドカーのプリウスは、世界の自動車業界に衝撃を与えた。そしてこの初代プリウスが達成した28km/L(10・15モード)という優れた燃費性能は、後発のモデルに対して大きなハードルとなった。

 そんななか、1999年にホンダからも同社初の量産型ハイブリッドカー・インサイトにデビューする。プリウスの対抗馬となるインサイトは、当時の量産車最高となる35km/L(10・15モード)の燃費性能を発揮し、その高性能をアピールした。

 しかし、インサイトの実現した低燃費は、涙ぐましい努力の結果によるものだった。目標の燃費性能実現に向けて、インサイトでは大胆な軽量化設計をとり入れていたのだ。

 モノコックはオールアルミ製で、ボディにもアルミとプラスチックを使用。シートは運転席と助手席のみにするなど、極端な軽量化により、重量のあるバッテリーを搭載しながら初代インサイトの車重は820kgに仕上げられた。

 主に軽量化によって当時最高の燃費性能を実現したものの、それが仇となって初代インサイトの実用性は高いとは言えなくなり、結果的に販売成績は低迷してしまった。超低燃費を謳い、販売前の期待が大きかったにもかかわらず、その失速ぶりもまた大きかった。

 2009年に登場した2代目以降のインサイトは、車名こそ同じものの路線を変更して巻き返しを図るが、ヒットと呼べるほどの売り上げを残せなかった。さらに既存のホンダ車にハイブリッドモデルが増えたこともあって、2022年にシリーズの販売を終了した。

短命に終わったバブルの落し子「マツダ ユーノス プレッソ」

なぜ受けなかった!? 革新的&個性的だったはずが…大失速したクルマたち
ユーノス プレッソ。1991~1998年にマツダ系列のユーノス店から販売されたFFのスペシャルティスポーツクーペで、ロードスターと並ぶユーノスの看板だった

 日本国内がバブル景気に沸いていた1980年代後半から1990年代にかけて、自動車メーカーのマツダが採用した戦略が5チャンネル(販売店)体制。「マツダ」「アンフィニ」「ユーノス」「オートザム」「オートラマ」の5店を展開して販売力を高めようとしたこの戦略は、メリットよりもデメリットが多くなり、最終的にマツダの経営危機を招いてしまう。

 そのチャンネルのひとつだったユーノスからリリースされたのがスペシャリティスポーツクーペのユーノス プレッソだ。日本国内ではプレッソとして販売されたこのモデル、ヨーロッパでは3カ月先行してMX-3という名称で発売され、一定の評価を得ていた。

 日本でもマツダの期待を背負って登場したプレッソだが、このクルマが登場したのは1991年で、間の悪いことにすでにバブル景気は後退の兆しを見せ始めており、それがプレッソの運命にも大きく影響を落とすことになった。

 2ドア+ハッチバックの4シーターモデルだったプレッソには、当時世界最小のV6エンジンが搭載されていた。その排気量は1.8リッターであり、どちらかというと大排気量モデルに採用されるV6をあえて1.8リッターで用いたことにマツダの意欲が感じられた。

 ボディはスポーツカー然としたローダウンフォルムだが、リアにはボディラインと一体化したガラスによって思いのほか余裕のある後部シートの天井高を確保。4シーターでありながら2シーターにも見える独特なスタイルはプレッソだけの魅力でもあった。

 このように、クルマ単体で見れば決して出来が悪くなかったのだが、当時のひっ迫していたマツダの経営状態や、バブル景気崩壊のあおりを受けて、プレッソは次世代モデルを生み出すことなく一世代8年でその歴史を終えている。

 欧州での評価や売り上げに比べて日本での失速が目立ったユーノス プレッソの思い出は、その悲劇性ゆえに現在でも一部の人の記憶に深く刻まれている。

貿易摩擦緩和にひと役買えず「トヨタ キャバリエ」

なぜ受けなかった!? 革新的&個性的だったはずが…大失速したクルマたち
シボレーが製造し、トヨタが輸入して自社のバッジを冠したキャバリエ。この写真ではノーズのエンブレムがトヨタになっているが、ナンバーは海外仕様のまま

 1980年に顕在化した日米自動車貿易摩擦は、90年代に入っても解消の兆しは見えず、自国のモデルが日本で売れないアメリカから日本には、さまざまなかたちでプレッシャーがかけられていた。

 そうした自動車貿易摩擦を緩和する施策のひとつとして、アメリカ製のクルマに日本メーカーのバッジを与え、国内での販売力を利用して売り上げ向上を狙うというものがあった。

 このような経緯で誕生したのが、トヨタが販売するアメリカ・シボレー社のキャバリエだ。

 1982年にアメリカで販売が開始されたキャバリエは、FFコンパクトカーという、それまで大排気量モデルを得意にしていたシボレーにとって新たな挑戦となるカテゴリーだった。そんなキャバリエの3代目モデル(1995年)が、トヨタのバッジを付けて日本で販売されることになった。

 1996年、トヨタはキャバリエの販売をスタート。販売目標は年間2万台で、そのために2.4リッターエンジン搭載のFFセダン&クーペとしては思い切った低価格に設定。アメリカ車を日本に定着させるために最大限の努力を行った。

 しかし、キャバリエのライバルとなる国産車は多く、加えて同クラスの国産モデルに比べて高いとは言えないキャバリエのクオリティも足かせになった。この結果、トヨタ版キャバリエの販売台数は目標に遠く及ばなかった。

 販売目標を達成できなかったトヨタは、当初の予定を前倒ししてキャバリエの販売をストップするという決断を下した。トヨタでは国内向けにいくつかの変更をキャバリエに施していたが、その期待もすぐに失速してしまった。

懐かしの名称復活も期待外れに「ホンダ クロスロード」

なぜ受けなかった!? 革新的&個性的だったはずが…大失速したクルマたち
2代目ホンダ クロスロード。ミニバンの2代目ホンダ ストリームのプラットフォームを利用して作られたクロスオーバーSUVで、7人乗りシートが装備された

 現在はSUV(スポーツ・ユーティリティ・ビークル)という名称が一般的となっているが、かつてこのジャンルのクルマはRV(レジャー・ビークル)と呼ばれていて、1990年代前半の日本はちょっとしたRVブームになっていた。

 このRVブームのなか、自社製RVを持っていなかったのがホンダだ。そこでホンダがとった作戦が、当時提携関係にあったイギリス・ランドローバー社製初代ディスカバリーをOEM(他社製造)モデルで販売すること。

 ホンダはディスカバリーにクロスロードの名称を掲げ、1993年から販売を開始した。初代クロスロードは、ホンダ自社開発のCR-Vが登場するとその役目を終え、1996年に販売終了となった。

 そんなクロスロードの名称が2007年に突如として復活した。これはCR-Vがワンランク上のクラスへと昇格したためで、それまでCR-Vに乗っていたユーザーの受け皿的存在での復活だった。

 新生クロスロードは名称こそ初代と同じものの、まったく異なるモデルであり、ガチのRV(SUV)だった初代に比べると、より乗用車に近い低床のSUVモデルで登場。構成やデザインも上々で、発売前からメーカーの期待も高かった。

 だが、2代目クロスロードの販売は伸びず、ホンダはわずか3年半でこのモデルの生産を打ち切ってしまった。価格や使い勝手など、販売不振の原因には諸説あるが、そのどれもが決定的とは言えず、ただ「売れなかった」という事実のみが残った。

 販売当初は注目されるものの、予想外に早く“失速”してしまうモデルは意外に多い。それだけユーザーの嗜好や動向を読むのは難しいことなのだろう。

【画像ギャラリー】姿を消したことが惜しまれる名車たち(12枚)画像ギャラリー

投稿 なぜ受けなかった!? 革新的&個性的だったはずが…大失速したクルマたち自動車情報誌「ベストカー」 に最初に表示されました。