文学座附属演劇研究所に第一期生として入所し、1968年に映画『肉弾』(岡本喜八監督)で毎日映画コンクール男優主演賞を受賞、1985年には映画『ラブホテル』(相米慎二監督)でヨコハマ映画祭主演男優賞を受賞した寺田農さん。
『これが青春だ』(日本テレビ系)、『ウルトラマン』シリーズ(TBS系)、映画『無常』(実相寺昭雄監督)など多くのドラマ、映画に出演。映画『天空の城ラピュタ』(宮崎駿監督)ではムスカ大佐の声を担当し、『野生の王国』(TBS系)をはじめナレーションでもおなじみ。芸能界屈指の読書家としても知られ、書評も連載。
2022年11月17日(木)には「生誕85年 実相寺昭雄メモリアル・コンサート2022~陰翳礼讃、夢中遊行」(自由学園 明日館講堂)でお話を担当。12月16日(金)には、2021年に公開された主演映画『信虎』(金子修介監督)のDVDが発売される寺田農さんにインタビュー。
◆友だちに冷やかしでついて行って文学座の研究生に
洋画家・寺田政明さんの長男として生まれた寺田さんは、東京豊島区椎名町にあった芸術家が集まる地域で育ったという。
「池袋の椎名町に“長崎アトリエ村”というのがあって、のちに詩人の小熊秀雄が『サンデー毎日』に“池袋にモンパルナスの夜が来た”という文で始まる有名な詩を書いたから、いまだに『池袋モンパルナス』なんて呼ばれているんだけど、僕はそういう環境の中で昭和17年、1942年に生まれたんですよね」
-お父さまと同じ絵の道に進もうとは?-
「まったく思わなかった。僕が5歳のときに椎名町から板橋のときわ台に引っ越しをするわけですよ。麦畑の中の一軒家みたいなところに。大草原の小さな家みたいな感じで膨大な敷地ではあったけど、隣の家が500メートルぐらい離れているんですよ。
だから家で絵を描いたりするのも、娯楽の一つだったんです。それで、小学校2年くらいのときに魚のカレイを描いた絵が、文部大臣賞をとって、木の箱に入った52色のクレパスをご褒美でいただいたんですけど、そこで終わっちゃったの(笑)。
イヤなガキだったからね。どういうふうにすればウケるのかということがわかってきちゃって、僕だけ真っ黒なりんごを描いてみたり、そんなことを平気でやっていましたからね。
うちの父親はそんなのをはるかに見据えているから、『つまらん。くだらん』という一言で終わっちゃうんだけど、それでもう授業以外で絵を描くことなんてまったくしなくなりました」
1961年、高校卒業後、早稲田大学政治経済学部に進学した寺田さんは、文学座附属演劇研究所に第一期生として入所。岸田森さん、草野大悟さん、橋爪功さん、樹木希林さん、小川眞由美さん、北村総一朗さんが同期だったという。
「友だちが『文学座というところが研究生を募集しているから受けよう』と。それで、大学の合格発表が終わった後だし、冷やかしでついて行ったら、よくある話で、受けようと言った友だちは落ちて僕が受かったんですよ。
樹木希林と僕が18歳で一番若かったから可愛がられましたよ。最初は、大学に行ったり研究所に行ったりしているうちに三島由紀夫の書き下ろしの『十日の菊』という芝居で抜てきされてね。
若者が出てくるんですよ。40日くらい稽古して、大学には行けないし、冗談じゃないやってね。舞台で暴れ狂ったんだけど、三島さんがすごく喜んでくれてね。『祝初舞台!良かった』みたいなことを書いてくれて(笑)。
文学座の研究所は1年間だから、それから何人か劇団のほうに上がっていくわけですよ。1年経って、僕は大学に戻るかってなったときに、今度は文学座の劇団のほうに入っちゃって。結局大学にも戻れないわ、この商売をやるという気持ちもないわという状態でこの仕事をはじめて今日に至るという感じですよ。
だから、今でもそうだけど、プロフェッショナルじゃないんですよね。いつまでもアマチュア感覚が抜けない。『何か常におもしろいことがやりたい、おもしろいことがやりたい』ということばかり思っているの(笑)」
※寺田農プロフィル
1942年11月7日生まれ。東京府(現・東京都)出身。文学座附属演劇研究所に第一期生として入所。1965年、映画『恐山の女』(五所平之助監督)で映画デビュー。『青春とはなんだ』(日本テレビ系)、大河ドラマ『徳川家康』(NHK)、映画『冬の華』(降旗康男監督)、映画『雪の断章-情熱-』(相米慎二監督)、映画『夜がまた来る』(石井隆監督)、映画『野性の証明』(佐藤純彌監督)、舞台『放浪記』など多くのドラマ、映画、舞台に出演。『実相寺昭雄の不思議館』シリーズではストーリーテラー・常盤台蓑作博士役で出演するだけでなく、『灯の中の対話』で監督業にも挑戦。2008年から約5年間東海大学文学部特任教授として、映画史入門、現代映画論、演劇入門、戯曲・シナリオ論などの科目を担当。書評も連載するなど幅広い分野で才能を発揮している。
◆盟友・実相寺昭雄監督との出会い
1年365日ずっと一緒にいるような間柄だったという実相寺昭雄監督との出会いは、寺田さんが21歳のとき。『時間ですよ』(TBS系)などで知られる久世光彦さんに紹介されたという。
「文学座でアトリエ公演をやった21歳のときに久世ちゃんが観にきたんですよ。久世ちゃん自体はまだディレクターじゃなくて助監督、ADだったんだけど、花形ディレクターという感じでカッコいいのよ。
実相寺より久世ちゃんのほうが年上なんだけど、彼は2浪して東大に行ったから、ストレートで東大に入った実相寺のほうがTBSで先輩になるんですよ。それで、久世ちゃんが『実は僕の友だちが今度ドラマを撮るので、若い役者を探しているから一回会ってみませんか』って言われて会ったのが実相寺。
その頃もう我々でも、『TBSに鬼才あり、実相寺昭雄』というので、名前も知っていたからね。それで久世ちゃんに言われてTBSのスタジオの入り口のところで待っていたら、汚いジャンパーを着て、脚が異様に長くて髪がグジャッとした人がいきなり『実相寺です』って言うんだよ。久世ちゃんはおしゃれでカッコいいのに、ずいぶん違うなあって(笑)。僕が21歳で実相寺が26歳。
結局、お茶を飲んで話して、やろうということになったんだけどね。それが、『でっかく生きろ!』。杉浦直樹さんと、岡田眞澄さんと古今亭志ん朝と一緒で。志ん朝と僕と実相寺は年が近かったし、みんな独身だったからね。毎晩夜中までリハーサルと本番をやったら、六本木に遊びに行っていましたよ(笑)」
-実相寺監督の演出はかなり細かかったそうですね-
「そう。そこがまたすごく僕なんかは変態的におもしろかったんだけどね。昔は読み合わせというのを夜の7時から夜中の2時くらいまでやっていたんですよ。そうすると、実相寺は『今のところのテンポを3倍にして』とか、『声はこの動物のメスの声で』とか、本当にしつこく言うの。
そのときに、千石規子さんという名女優の方が『こんなことをやったってね、本番じゃ全部役者が変えちゃうんだからね』って言ったんですよ(笑)。それで実相寺に『お前、そう言っていたぞ』って言ったら、『そうなんだよ。だからせめて本読みのときには一生懸命僕が言うのよ』って言っていた(笑)。そりゃあ役者はそうするよ。
実相寺は『役者は動く小道具』と言っていましたよ。のちに実相寺が映画を撮るようになって、『そこ3センチ右、動かない、まばたきしないで。息を止めて』なんてさ、『レントゲン撮ってるんじゃないんだから』って(笑)。それは実相寺の中の映像でガンとして絶対に変えないからね。
当時はヌーヴェルヴァーグの時代で、実相寺もその影響でものすごいカメラワークをしていたんですよ。それが僕はおもしろくてね。でも、スポンサーはまったくわからなかったみたいで、結局実相寺は3話ぐらいで降ろされたの。
『でっかく生きろ!』の最終話だけは実相寺が撮ったんだけど、クレジットは他の演出家の名前だったの。自分の名前じゃないから実相寺は、いい加減な演出をしていたね(笑)。
実相寺とは1年365日ずっと一緒にいるような間柄。毎日一緒だったから『お前らできてるんじゃないか』って言われるくらい仲が良かったけど、映像の仕事はきちんとやってないんだよね。キャスティングとかはしていたけど、映像のほうはね。クラシックの朗読が多かった。実相寺がやるコンサートオペラの芝居の部分を僕が朗読するというのが多かったですね」
◆「やたらと体を触りまくる監督だな」と思ったら…
1965年、『青春とはなんだ』に出演。青春ドラマが人気を博し、翌年には『これが青春だ』がスタート。同年、実相寺昭雄監督の『ウルトラマン』(TBS系)も始まる。そして1968年、寺田さんは、映画『肉弾』に主演することに。
※映画『肉弾』
岡本喜八監督の戦争体験を基にしたもうひとつの“日本の一番長い日”。昭和20年夏。まだ終戦を知らなかった工兵特別甲種幹部候補生のあいつ(寺田農)は、魚雷を脇に抱えたドラム缶で太平洋を漂流していた。彼がここまで来るには、おかしくも悲しい青春が…。
「最初にやった石原慎太郎の『青春とはなんだ』が当たったから、次にオリジナルで『これが青春だ』。それで何年か青春シリーズをやったんだけど、だんだん視聴率が落ちてきたから次は主役を替えよう、今度は先生をということで僕にという話になったわけ。
でも、僕は最初から不良の兄貴分という設定で、不良の兄貴分が先生というのはおかしいから、その前のシリーズでコーチに昇格することになったの。次に先生役でという含みがあって。次から主演で行くぞというときに『肉弾』の話が来たんですよ。
僕は当然『肉弾』のほうがやりたいわけ。それで東宝同士ということもあってやることになったんだけど、時間的にテレビがまだ撮り終わってないのに、『肉弾』がクランクインしちゃうわけよ。
そうすると、『肉弾』は頭を坊主にしなくちゃいけないけど、ドラマでコーチがいきなり坊主になるわけにいかないじゃない。そうしたら、ヘマをやって丸坊主になるという話を作ってくれたわけ。1週間くらいかぶって撮影していましたからね。岡本さんに対する敬意もあっただろうし、そんないい時代でしたね。今なんかだったら考えられないけど」
-『肉弾』の撮影はかなりハードだったのでは?-
「そうね。ただ、当時は若いしね。あれは50日、2カ月で撮影したんですけど、毎日楽しくてね。クソ暑い中やったけど、大変だったという思いはまったくないしね。撮影は楽しかったですよ。おもしろかったし。
やっぱりすごいなあと思うのは、当時は岡本さんを含めて、スタッフのメインは戦争経験者なんですよ。だから、たとえば僕がゲートルを巻いてというのがわからないと、そういうスタッフが小道具さんだけじゃなくて、みんながどうやるのか知っているんですよ。
そういうのはすごい体験でしたよ。昔はそういう戦争の匂いというものがまだ残っていた時代ですね。今は草鞋(わらじ)を履くのも大変だよというくらい誰も知らないからね」
-寺田さんはひとりだけほぼ全裸でしたね-
「そう。フルヌードで(笑)。岡本さんは、その前の年に『日本のいちばん長い日』という映画を撮っていて大ヒットするわけですよ。雨の神宮外苑の学生が出征するという有名な映像があるじゃない。岡本さんは、あの中の一人なんですよ。
明治大学から東宝に入って、そういう中からも行くわけだから、自分たちの“日本のいちばん長い日”は終戦ではないと。自分にとっての戦争及び終戦は、違うものだというので、どうしてもやりたかった作品なんですよ。『日本のいちばん長い日』を撮る前からやりたいと思っていたんだよね。
僕は『日本のいちばん長い日』にキャスティングされていたんですよ。それでその当時は扮装テストというのがあって、衣装を着てサーベルを持ってやったの。
そのときに岡本さんがやたらと僕の体を触るわけ。胸とか背中、腕とか全部。結局、スケジュールがズレて舞台と重なっちゃったから映画のほうはできなかったんですけど、やたらと触る変な監督だったなという感じでね。
それからしばらくして、僕が一番仲が良かった日テレの石橋冠さんというディレクターに渡された脚本が『肉弾』だったわけ。これがおもしろくてね。『岡本さんが麻雀をやろうと言っている』と言うからやることになったんですよ。
言ってみれば、面接だよね。面接だとかオーディションなんて言うと、僕が『なんでそんなことをやんなきゃいけないんだ?冗談じゃない』って言うのを冠ちゃんは知っているからね。
それで、麻雀ということになったんだけど、『肉弾』の話がまったく出てこなくて真剣に麻雀をやっているんですよ。その頃僕は本当に麻雀が強くて、“雀鬼”と呼ばれたくらい強かったの。
みんながあまりにも下手だし、『肉弾』の話も出ないから、コテンパンにやってやろうと思って、夜中の3時くらいに終わったら、岡本さんが『どうだった?』って聞くからさ、『ひどい。下手すぎる。こういうのは麻雀とは言わない』って言ったら、『いや、そうじゃない。肉弾のシナリオだ』って言うんだよ(笑)。
それで『あれは大変おもしろうございます』って言ったら、『じゃぁ一緒にやろうよ』ということになったんですよ。『顔もひねくれているけど、麻雀も相当ひねくれているね』みたいなことを言われてね(笑)」
-衝撃的な作品で話題にもなりましたし、賞も受賞されました-
「(毎日映画コンクールで)主演男優賞をいただいたけど、別にあまり感動もしなかった。なぜかと言うと、全部監督に言われた通りにやったの。自分の独創的なところなんてなかったんですよ。
その頃25歳で、役者をずっとやろうなんて思ってないし、オリジナリティーなんてないわけだから。しかも戦争なんて知らないしね。監督が『ここから走ってこういうふうにして』って言うと、その通りにやっていたわけ。
だからこういう言い方をしたらなんだけど、操り人形みたいな感じ。それがいかに監督の要求に応えられたかということになったんだろうけど。でも、その主演男優賞というのは、別に自分にとってあまり大きな勲章という実感はなかったですね。
それよりも逆に、その翌年、三船(敏郎)さんが独立して三船プロを作って、『赤毛』(岡本喜八監督)という映画を撮ったの。同じ岡本(喜八)さんが脚本で監督なんだけど、主人公の赤毛が三船さんで、僕はそれにくっついている江戸前のスリをやったんですよ。
それが最終的にキネ旬の助演男優賞候補になって、三船さんと争ったんですよ。三船さんは『黒部の太陽』(熊井啓監督)で助演男優賞候補で、最終的に三船さんが受賞したの。
こっちのほうが受賞しなかったけど、初めて自分が小細工をしたというか、ここはこうやろうというような小細工だよね。芝居がちょっとわかりかけて『こうやりたい、ああやりたい』って思うようになって。岡本さんも自由にやらせてくれたから、いろいろ自分で考えてやった作品ですね」
-その頃は俳優でやっていこうと思うように?-
「そのときは思うのよ。でも、それが終わってしばらくすると、またダレちゃって、『つまんねえ仕事だな』って思っちゃうんだよね(笑)。毎回それの繰り返しみたいな感じですよ」
『肉弾』で注目を集めた寺田さんには次々にオファーが舞い込み、映画『無常』、映画『冬の華』(降旗康男監督)、ヨコハマ映画祭主演男優賞を受賞した『ラブホテル』(相米慎二監督)など多くの作品に出演することに。次回はその撮影エピソード、高倉健さんとの衝撃的な初対面も紹介。(津島令子)