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1968年に映画『肉弾』(岡本喜八監督)で毎日映画コンクール男優主演賞を受賞し、映画『無常』(実相寺昭雄監督)、映画『冬の華』(降旗康男監督)、映画『ラブホテル』(相米慎二監督)など多くの作品に出演してきた寺田農さん。

一癖も二癖もある超個性的な名匠たちに愛され、絶大な信頼を寄せられる存在に。映画『天空の城ラピュタ』(宮崎駿監督)ではムスカ大佐の声を担当し、『野生の王国』(TBS系)をはじめナレーションでもおなじみ。

『実相寺昭雄の不思議館』シリーズの1篇『灯の中の対話』で監督業にも挑戦。2008年から約5年間東海大学文学部特任教授を務め、芸能界屈指の読書家として知られ書評も連載するなど幅広い分野で才能を発揮している。

 

◆若い頃は酒とケンカばかりで…

若い頃はケンカっ早く、遅刻の常習犯だったという寺田さんだが、仕事が途切れることはなく、次から次へと作品が続くことに。

「きっと役者が人材不足でいなかったんだね。『こいつは本当に生意気でケンカばかりして、降ろしてやりたいんだけど、降ろすと代わりのやつがいないから』って(笑)。

本当にケンカばかりしていたから日活も3年くらい出入り禁止になったし、監督に台本をぶつけて、『馬鹿野郎ふざけんじゃねえ、お前がやれ』って言って帰ってきちゃってパージ(追放)になったりね。すごいケンカっ早かった。酒もよく飲んだし、遅刻も…本当にひどかった」

1978年、寺田さんは映画『冬の華』(降旗康男監督)で高倉健さんと共演。この映画は、兄弟分を殺害した罪を償い、15年ぶりに横浜に戻ってきた幹部のヤクザ(高倉健)が、再び義理によって罪を犯すことに…という展開。寺田さんは健さんの弟分のヤクザを演じた。

「その頃の我々にとってスターというのは高倉健さんしかいなかったんですよ。最後の銀幕のスターというのは。

健さんは東映、のちに松竹の山田(洋次)さんともやるけど近寄りがたい人でしょう? その健さんが東映に里帰りして主演、しかもヤクザ映画。そこに健さんの子分役で出るなんて、もう舞い上がっちゃってね。

明日健さんに初めて会うという日に、これは早く寝ようと思って、早く寝るためには少し飲んだほうがいいだろうって飲んでいるうちに、朝まで飲んじゃって(笑)。もうベロベロになっちゃってニンニクと酒の臭いがすごい状態で撮影所に行って、セットの前に発泡スチロールのお墓があったから、そこに倒れこんでいたの。

そうしたら周りのスタッフが、その頃はもうテレビやなんかでしょっちゅう東映京都には行っていたから、『農ちゃん、健さんはニンニクが嫌いだから、その臭いを牛乳飲んで消して』とか、『りんご食え』とか言われて余計気持ちが悪くなって、死んだように倒れていたんですよ。

しばらくして俳優会館のほうから、タッタッタッタとまるで『アラビアのロレンス』のオマー・シャリフのような登場で、ピタッと僕の前で止まるわけですよ。それで『高倉です、よろしく』って言われたの。

僕はとんでもないと思って、すぐに立ちあがろうとしたんだけど、酔っていて起き上がれないんだよ。それで『よろひくお願いひましゅー』みたいな感じで(笑)。

撮影が始まったときには酔いも醒めていたから、『健さんはニンニクがお嫌いみたいで、すみませんでした』って言ったら、『いや、ニンニクは好きです。自分は大丈夫です』って。それが初対面で、僕が『いつ自分をまた兄貴のところに戻してくれるんですか』みたいなセリフを言うところだったんだけど、ニンニクの臭いがプンプン(笑)。

それで撮影最終日、最後のシーンが夜8時くらいに終わったのかな。当時の健さんのマネジャーさんが、『この後予定はありますか?高倉が一緒に食事をしたいと言っています』というので、『わかりました』って。

それで演技事務の人に『健さんがメシに連れていってくれるみたい』って言ったら、『健さんはそんなこと絶対にない人やから、絶対に行きや』って言われて。それで最初に行ったのが健さんの行きつけのステーキハウス。

『テラちゃんは酒も強いしタバコも吸うし、何でも好きにやってください』って言われたから、ガンガン飲んでタバコもプカプカやって(笑)。そこから健さんには、『駅 STATION』(降旗康男監督)とか『野性の証明』(佐藤純彌監督)、『夜叉』(降旗康男監督)…ほかにも何かと声をかけて可愛がってもらいました。

初対面がベロベロでかっこつけるどころじゃなかったからそれがよかったのかもしれない。みんな汚いの。健さんの前だと誰もタバコを吸わないんだよね。遠慮してさ。僕はスパスパ吸っていたから、『健さんの前ではやめなよ』って言われたりしたけど、『いつも吸っているからいいんだよ』って言ったら『よくお前はそういうことが言えるね』なんて言われたけどね(笑)」

-寺田さんはそういうところが気に入られたのでしょうね-

「そうだと思う。初対面からひどかったからね(笑)。僕が健さんとNHKのドラマ『刑事(蛇に横切られる)』に出ていたときにたまたま大学生だった娘が運転手でついてきたことがあって、健さんに紹介したんですよ。

そうしたら健さんが、『いやあ、大学生ですか。いいなあ』って、自らコーヒーを淹れてくれてね。『自分にはこういうことは二度とないことだからね』って言って。娘はいまだに健さんがそう言ったことを覚えているって言っていますよ」

 

◆映画『ラブホテル』は自分でキャスティング?

『セーラー服と機関銃』をはじめ、相米慎二監督のほとんどの作品に出演してきた寺田さん。1985年の映画『ラブホテル』ではヨコハマ映画祭主演男優賞を受賞した。

『ラブホテル』で寺田さんが演じたのは、経営していた小さな出版社が倒産し、取り立てのヤクザに目の前で妻を犯されて人生に絶望した村木。最後に金で女を買い、自殺しようと考えていたが、ホテトルから派遣されてきた名美(速水典子)に魅せられ、死ねなかった村木は2年後、名美と偶然再会する。

-村木役は寺田さんがご自身で選んだとか-

「そう。キャスティングを自分でね(笑)。相米(慎二監督)が撮るときには、助監督だった榎戸(耕史)が必ず、『次、これを撮るから、どの役をやるか決めてもらってこい』と言われて僕のところに来るシステムだったの。

これにはいろいろあってね。『魚影の群れ』のときに1シーンだけど、緒形拳さんが取り調べるところだから『これいいじゃん、これ』ってやったら、長いからって全部カットしちゃうんだよ。

それで、こういうのはダメだなって僕もわかってくるわけだよ。それで絶対に切れないところ、ここを切ったら話がつながらないというところに出ようと思って、『雪の断章-情熱-』では、斉藤由貴と榎木孝明と世良公則、この3人がいる屋台のオヤジをやったの。このシーンを切っちゃったら、この話が成立しないから。そういう風にだんだん僕も賢くなっていくわけ(笑)。

そういう形でやっていたから、榎戸が『ラブホテル』の台本を持ってきたときに『これ(村木)俺がやる。誰か決まっているの?』って聞いたら、『監督の中では思う人がいるみたいですよ』って言っていたけど、『これ俺がやるから言っておいて』って、自分でキャスティングしたの(笑)」

-寺田さんにとって相米監督はどんな方でした?-

「実相寺(昭雄)とは対照的だった。相米も独特の撮り方をする人で、現場で演技指導は一切しない。役者自身が自分の中から出てくるまで何時間でも待つんだよ。相米は徹夜して1カットも撮れないことも珍しくなかったからね。

何の説明もなく、役者のやりたいようにやらせる。それで、『はい、バツ』。挙句の果てには『ゴミ』『タコ』『カス』だからね(笑)。でも、そうやって、自分の満足のいく芝居が出てくるまで延々と待つ。新人女優の多くは泣いていましたよ。

それで、現場が止まってしまうと相米が僕に『何とかしろ』って言うからさ。役者に感情と関係なく泣きながらやらせてみて、次に笑いながらやらせてみて、そして混ぜてやらせて、最後に普通にやらせてみるという感じで、そうやって時間をかけて芝居を作っていったんですよ。

相米の現場では、泣き出す女優も多かったし、みんな悩んで苦しみながらやっていたけど、できあがった作品を観ると、やっぱり違うんだよね。役者自身が自分で考えて発見した芝居だから躍動しているんですよ。だから現場でわんわん泣いていた役者もみんな『また相米監督とやりたい』って言うの(笑)。

小津(安二郎)さんや溝口(健二)さんをはじめ、過去の名監督もそうだけど、名監督というのはやっぱり役者を育てたり、美術とかカメラマンなどスタッフを育てたりするんだよね。それが監督の絶対条件で。

実相寺は、『役者は動く小道具だ』と思っていたから役者は誰も育たなかったけど、スタッフは育てた。相米は役者を育てたね。

永瀬(正敏)もそうだしね。金はないけど精神的に相米の現場ほど豊かな現場はないんじゃないかな。薬師丸ひろ子、工藤夕貴、夏目雅子、(佐藤)浩市、(三浦)友和…相米組を経験している役者はみんなその精神的な贅沢(ぜいたく)さに憧れるわけよ。

そのときにみんな大きく役者として成長して変わっていくわけだからね。相米の現場からは本当に役者が育った。ただ、役者がテレビやほかの現場もそうだと思ったら大変なことになる。監督がOKを出しているのに役者が『もう一回お願いします』なんて言ったら『うるさい役者だ』っていうことになってしまうからね」

 

◆実相寺昭雄監督と相米慎二監督

岡本喜八監督や実相寺昭雄監督、相米慎二監督をはじめ、個性の塊のような名匠たちと仕事を重ね、信頼を寄せられていた寺田さん。なかでもとくに仲が良かった実相寺監督と相米監督を引き合わせたのも寺田さんだったという。

「実相寺は役者を知らなくて、男の役者は僕と清水こう治(※「こう」は糸へんに宏)しか知らないんだから。誰にも興味がないし、他の監督の作品は一切見ないから、僕が一生懸命『こういう役者がいるよ』って言っていた。

何しろ実相寺は役者にいろいろ考えてほしくないわけだからね。自分の考えた通り、『右に3センチ、そこで息を止めて』という感じで、レントゲン撮影のようにやってくれる人が好きなんだよ。

『帝都物語』のときも、最初に決まっていた役者が一生懸命勉強してきて『日本の近代帝国主義における経済は~』とか『この時代の渋沢栄一は~』なんて言い出すからさ、『あなたこの作品には向いていない。おやめになったほうがいい。そんなことをあなたが言っているとき、私がずっと足元を撮っているかもしれませんよ』って降ろしちゃった。だから実相寺もすごいんですよ。

清水とか、僕とか石橋蓮司なんかは実相寺のことがわかっているからね。そういう実相寺の世界で遊べる役者が実相寺にとっては1番の役者なんですよ。自分の世界で遊んでくれて文句を言わない。理屈を言わない、文句を言わないという役者がね。

実相寺は、役者やほかの監督の作品には一切興味がなかったけど、僕が紹介して会わせた相米とだけは仲良くなって、二人はお互いを尊敬しあっていた。

実相寺はクラシックのスコアも読めて、オペラの舞台の演出も多く手がけていたんだけど、相米もやらなきゃいいのにオペラの演出をやっちゃったことがあってね。よせばいいのに実相寺に招待券を送っちゃって、実相寺が行ったんですよ。それで相米が『いかがでした?』って聞いちゃったんだよ。

そうしたら、『相米さん、オペラはおやめになったほうがいい』って(笑)。それから相米は二度とオペラはやらなかった。どっちも天才だったけど、お互いに認め合っていたね」

寺田さんは、実相寺監督と相米監督とは、一緒に仕事をしたという意識はなく、おもしろく遊んでいた感じだったという。次回は、ムスカ大佐の声で話題を集めた『天空の城ラピュタ』(宮崎駿監督)、34年ぶりに主演した映画『信虎』(金子修介監督)の撮影裏話なども紹介。(津島令子)