戦後日本のプロレス界を代表する国民的ヒーローで、参院議員も経験したアントニオ猪木氏が1日、自宅で亡くなった。79歳。近年は「全身性アミロイドーシス」という難病と闘っていた。
プロレスラーとしての猪木氏の歩みは改めて筆者が語るまでもない。一方で「「この道を行けば…」の座右の銘で知られる猪木氏は、プロレスラー出身で初めて国会議員となり、政界にも道を切り開いていった。その道はやがて馳浩氏(元衆院議員、現石川県知事)、大仁田厚氏(元参院議員)など後進が続き、格闘界と政治に新しい関係性をもたらすことにもなった。
「政治家・アントニオ猪木」の足跡は、1989年の参院選でスポーツ平和党を旗揚げに始まる。比例区で99万票を集めて初当選。ただ同党は内紛もあって空中分解し、猪木氏は再選ならず、一度政界を離れた。そして2013年参院選で、石原慎太郎氏が代表を務めていた前身の日本維新の会の公認を受け、18年ぶりに永田町のリングに復帰。しかし当時は安倍政権一強にあって野党が離合集散を繰り返す中、次世代の党、無所属、日本を元気にする会を経て最後の3年は無所属で活動した。
猪木氏の政治家としての業績はなんといっても独自外交だ。そのハイライトと言えるのが、1990年8月、イラクが侵攻したクウェートで日本人41人が人質に取られたさ際、イラクに乗り込んだ時のことだ。
外務省による解放交渉が進展しない中、猪木氏は同年12月2、3日、新日本プロレス主催の興行「平和の祭典」を首都バグダッドで開催。初日はミュージシャンらによる音楽イベント、2日目は前出の馳氏のほか、長州力氏、佐々木健介氏らによる試合などを行った。祭典から数日後、日本人の人質や在留邦人は解放。湾岸戦争開戦直前に事態を打開する大きなきっかけになった。
また、師匠の力道山が現在は北朝鮮のエリアである咸鏡南道出身という縁もあって、北との独自外交を積極的に行なったことでも注目を集めた。1994年に平和の祭典を平壌で開催し、政界に復帰してからも拉致・ミサイルで制裁中の同国を度々訪問。渡航許可を受けずに行ったため登院停止30日の懲罰を受けることもあった。批判を浴びたが、猪木氏は対話の必要性を行動で示し、信念は揺るがなかった。
猪木都知事の可能性
外交で発揮した存在感に比べると、国内向けの政策ではほとんど成果は出せなかった。しかし、一度だけ自民党を震撼させるほど政局のカギを握ったことがある。1991年の都知事選だ。
この都知事選は当時、3期務めていた現職の鈴木俊一氏が高齢多選の批判をものともせずに出馬。鈴木氏を自民党都連が支援した一方、党本部は小沢一郎幹事長ら執行部が鈴木氏の出馬を認めず、元NHKアナウンサーの磯村尚徳氏を擁立。選挙前から両者のパフォーマンス合戦が繰り広げられ、ワイドショーを連日賑わせる「劇場型選挙」の様相になっていた。
冷戦が終わり、自民・社会二大政党の55年体制が揺らぎつつあった当時は、都市部を中心に無党派層が力を持ち始めた頃だった。その2年前、猪木氏が初当選した参院選では、自民党がリクルート事件や消費税導入で国民的批判を浴びたことで初めて過半数割れする大敗。社会党の土井たかこ委員長が「山が動いた」と述べるなど政界は激動期に入っていた。
そんな時に政界の新規参入組として注目されていた猪木氏が都知事選参戦を表明したのだ。その4年後の選挙で、無所属のタレント、青島幸男氏が当選した時代の流れを考えても、もし猪木氏がここで出馬をしていれば一大ブームを巻き起こす可能性は十分にあった。自民党は鈴木陣営と磯村陣営に割れている。当時はまだ48歳と若かった猪木氏はポテンシャルも確かに感じさせていた。既存の政党、政治家に嫌気がさした無党派層の受け皿になり得た。
万一ここで当選、あるいは大善戦した場合、猪木氏がポピュリスト政治家として際立った地位に駆け上がったであろう。のちに細川政権が誕生し、自民党が野党に初めて転落したような時勢だ。政界が流動化する中で、猪木氏を「神輿」として担ぎ出してになりうることもあったのではないか。日本政治の歴史にどのような波紋を広げたのか、今となっては色々なシナリオを脳裏に浮かべてしまう。
ポピュリストの道は歩まず
しかし現実には猪木氏は都知事選に出馬しなかった。後年、側近らの暴露本などで明らかになるが、舞台裏としては、金丸信氏や小沢氏らに説得され、出馬を見送った。その条件として、多額の負債や税金滞納を抱えていた猪木氏に対し、債務解消の動きがあったとされる。
当時高校生だった筆者も覚えているが、テレビ朝日のニュースステーションのスタジオに呼ばれ、キャスターの久米宏氏から「なぜ降りたのか」を尋ねられても、いつもの「元気」は微塵もなく、言葉を濁すのみで違和感しかなかった。ほとんどの視聴者もモヤモヤを残したはずで、この瞬間、ポピュリストの政治的リーダーとして大成する芽を自ら摘んでしまったのは確かだった。生真面目なほどの外交活動を見ても、そもそもポピュリストとしての野心はそこまで強くはなかったとも言える。
国民的なヒーローといえど、強烈な光を浴びる裏で、凡人には考えられないような内なる闇を抱えることもあろう。「アントニオ猪木」という名の人生を賭けた興行を続けるからには、スキャンダルの一つや二つ、副産物としては珍しくもないし、生前の功績を揺るがせるものではない。
猪木氏に勇気をもらった人たちは数えしれない。今は心よりお悔やみを申し上げたい。