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【編集部より】世界史に特筆されるであろう今回の侵攻は、長らく平和を享受してきた日本人の外交・安全保障観にも大きな波紋を広げてきた。前ウクライナ大使の倉井高志氏に聞く「日本人の知らないウクライナ問題」。2回目は、領土問題など、対話だけでは解決が困難な外交のリアルについて論じます。(2022年9月14日取材:3回シリーズの2回目)

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戦争中でも外交は必要、だが…

――ロシアによるウクライナ侵攻に限りませんが、日本では「軍事ではなく対話、外交で事態を収拾すべし」という意見が良識的なもののように受け取られがちです。実際に外交の場面に立ち会ってきた倉井さんは、こうした意見をどうお考えになりますか。

倉井高志(くらい・たかし)
元外交官。前ウクライナ大使。京都大学法学部卒業後、1981年、外務省入省。外務省欧州局中東欧課長、外務省国際情報統括官組織参事官、在大韓民国公使、在ロシア特命全権公使、在パキスタン大使を経て、2019年1月から2021年10月までウクライナ大使を務め、同月帰国。著書に『世界と日本を目覚めさせたウクライナの「覚悟」』(PHP研究所)

【倉井】対話や外交が常に重要であることは間違いありません。例えば戦争中で、互いに命を狙い合っている状況下でも、外交は必要です。しかし外交や対話というものは、表面的には言葉のやりとりに見えますが、実際にはそこで交わされる言葉はその国の国力全体を背後に抱えているのです。言葉はあくまで先端部分にすぎず、実際にはその背後にある国力が重要で、そこには当然、軍事力も、経済力も含まれます。「軍事ではなく外交で」と言う人たちは、そのことを分かっておられないのではないでしょうか。

軍事や経済力がない状態で行われる外交や、発せられる言葉には、力がありません。非常に空虚です。私は40年間、外務省でいろいろな場面で外交交渉などに当たってきた経験で、このことを痛感しました。

こうした現実は、国家間の関係と、個人同士の関係の違いを考えれば分りやすいと思います。個人同士の関係では、国や立場が違っても真の信頼関係を築くことができますし、その上で言葉だけで説得したり、相手の言うことを聞いてあげることもできます。

しかし国家間の関係においてはそうはいきません。交渉に携わる者同士の良好な関係が交渉にプラスの作用を生み出すこともありますが、しかし、交渉担当者の背後には自国の指導部の意思や国民感情そして何よりも国益がかかっていますから、最終的な判断は「国家として損か得か」によって決まります。いくら相手がいい人で、言い分を聞いてあげたいと思っても、国家の損失になることに同意することはできません。交渉相手個人がどんなにいい人でも、国家としては戦わなければならないこともあるのはそのためです。

「話せばわかる」が裏目に出たゼレンスキー

――「腹を割って話せばわかる」というのは幻想ですか。

【倉井】「話せばわかる」は、まさにゼレンスキー大統領が就任当初、対ロ外交で信条にしていた姿勢です。彼は2019年5月に大統領に就任しますが、その前の大統領選挙のキャンペーンの頃から、ゼレンスキーの発言からは「自分とプーチンが二人で話し合えば問題は解決する」と考えていた節が見受けられます。おそらくプーチンはそれを見て、「与しやすし」と思ったのでしょう。だから時にはゼレンスキーにアメを与えるようなこともしてきました。

しかし、ゼレンスキーが「話せばわかる」と思ってやってきたことは、結果的にすべて裏目に出ました。こちらが先に譲れば相手も譲歩するだろうと思いきや、一歩譲れば逆に向こうはさらに一歩踏み込んでくるということを、ゼレンスキーは身をもって知ったのです。2019年から2020年にかけて、特に夏以降はゼレンスキーもこのことに気づいて、対ロ政策をようやく転換しました。

今年4月、ブチャの凄惨な現場を視察し、沈痛な面持ちのゼレンスキー大統領(ウクライナ国防省ツイッター)

日ロ関係の改善だけでは北方領土問題は解決できない

――日本の対ロ外交にも当てはまるようなお話です。リーダーの個人的な関係性の構築によって、ロシアとの間にある問題を解決できる、という……。北方領土も、「安倍・プーチン関係で二島は返ってくるだろう」というような楽観的な空気が醸成された時期もありました。

【倉井】そもそも北方領土の問題は、日ロのバイ(二国間関係)で解決できるものではないというのが私の個人的な考えです。これまで、ロシアの領土問題で若干、動きが期待できたのは、米ロ関係や欧ロ関係など、グローバルな戦略的環境に変化があった時。そしてもう一つは、ソ連崩壊時のような、ロシア自身が大きな問題を抱えた時。この二つだけです。

なぜかというと、ロシアにとって領土問題というのは二国間の問題ではないからです。北方領土にしても、ロシアが軍を置いているのはオホーツク海の戦略原潜を守るためであり、この戦略原潜は対米戦のために置いているものです。

――確かにプーチン大統領が安倍総理に「北方領土を仮に返還したとして、米軍基地を絶対に置かないと言えるか」と聞いたという話がありました。

【倉井】ロシアは日本との関係だけで北方領土問題を捉えているわけではありませんし、ロシアにとっては対米関係上の軍事的側面が重要であるので、日ロ関係だけで状況を動かそうとするのはそもそも無理な話です。

軍事による解決に至らないための「経済制裁」

――そういう意味では、ロシアというのは経済的には多少、落ち込んでも、軍事や外交戦略では侮れないというイメージがありました。しかし今回は「一体どうしたいんだ、何がしたいんだ」という印象です。

【倉井】ザポリージャ原発に対するIAEAの視察との関係でも明らかな嘘をつくなど、タガが外れている印象です。しかし、ロシア自身は今の状況にどう対応すべきか、すでに動き始めています。

ロシア政府は対ロ制裁が長期化することを前提に、ヨーロッパ各国との連携が途絶えても自活できるように、技術的、経済的に自立するための「国家発展戦略」を建てるべく戦略を練り始めており、9月にも大統領に案が提示されると言われています。実際どこまで進んでいるかは分かりませんが、いわば「新しい国家づくり」を検討し始めている状況にあります。

つまり、彼らはそう簡単に「すみませんでした、戦争をやめます。制裁を解除してください」と言うつもりはないということです。プーチン政権が倒れ、新しい政権になれば話は別ですが、今はその兆候は見えません。

日本としては、経済制裁に徹底して参加する必要があります。なぜ経済制裁が必要かと言えば、仮に国際社会で誤った行為に及んだ国に対して経済制裁ができない事態になれば、打てる手は軍事行動しかなくなってしまうからです。逆に言えば、軍事行動によって懲罰や制裁を加えなければならない事態にしないためにも、経済制裁を断固成功させなければならないのです。

核の脅し…プーチンは合理的判断を下しうるか

――追い詰められたロシアが核を使うのでは、という意見もあります。

【倉井】これはもちろん分かりませんが、プーチンが合理的に考えるという前提に立てば核の使用はあり得ない、ということは言えるでしょう。核を使えばすべてロシアの思い通りになるわけではないからです。1945年の広島・長崎以来の、核使用という歴史上の大事件を引き起こせば、NATO側の大きなリアクションを招きかねないというのが一点。

もう一つは、いくら何でもウクライナ全土を一瞬にして焦土化するような核攻撃をすることはないでしょうから、使ったとしても戦術核で非常に狭い範囲に影響を及ぼすものになるだろうと思います。ところが仮にロシアがウクライナの一地域に対して核攻撃を行ったとしても、ウクライナが抵抗の意志を失わなければ、ロシアにはもう次の手がなくなってしまいます。そのため、合理的に判断すれば「あり得ない」のですが、今のロシアが合理的判断をできる状態にあるのか、についてはこれまでの経緯を見る限り、懸念があります。