神戸女学院大学名誉教授で、思想家の内田樹氏のツイートが話題になっている。内田氏は12日、次のようにツイートした。
60-70年代の学生運動の高揚の理由を「実家が太い」と解した人がいたみたいですけど、これはいかにも「現代風」な解釈だなと感服しました。若い人には想像がつかないと思いますが、あの時代の日本はすごくリッチだったんです。学生運動の財政的基盤は「学生が金を持っていた」ことです。
60-70年代の学生運動の高揚の理由を「実家が太い」と解した人がいたみたいですけど、これはいかにも「現代風」な解釈だなと感服しました。若い人には想像がつかないと思いますが、あの時代の日本はすごくリッチだったんです。学生運動の財政的基盤は「学生が金を持っていた」ことです。
— 内田樹 (@levinassien) September 12, 2022
「上級国民の記憶改変」
内田氏は、匿名ユーザーの「学生運動が今だと実家が太い陰キャ(編集部注・家が金持ちの内気な人)の青春ごっこで説明できてしまう」というツイートに反応したとみられる。この匿名ユーザーのツイートには「全く違う」などの反論が続々と寄せられていたが、反応した形の内田氏のツイートにも次のように、様々な意見が寄せられている。
あの当時、大学進学率は2割ほどに過ぎない超エリートだからそりゃリッチだろう。
母子家庭出身の新聞奨学生で、朝の4時から折り込み作って、高槻の販売店から龍大深草キャンパスに通学していた親父が、学校に着いたと思ったらバリケード封鎖されてたときの絶望とか怒りはこの人にはわかんないんだろうな……。」
全共闘世代の叔母は向学心旺盛で高校も県下有数の進学校に進んだが、家庭の経済事情で大学進学は叶わなかった(特別貧しかった訳ではない)。
内田氏が学生だった70年代には学生運動は下火。60年代と70年代を混ぜているのは良くない
60~70年代なら、夜学苦学生なんてもんは腐るほどいた
上級国民の記憶改変
1950年、東京都大田区に生まれた内田氏。父親はサラリーマンで、小中学校は地元の区立学校に通った。高校は名門・都立日比谷高校に進むが、日本私立大学協会の「高等教育の明日 われら大学人〈6〉」によると、高校生活を独特の言い方でこう振り返る。
「革命前夜に思えた。受験勉強なんか、やってる場合じゃないと思って」高校を退学。家出してジャズ喫茶でアルバイトをするが「食えなくなり、12月、親に謝って家に入れてもらいました」
その後、大検資格を得て一浪の末、東京大学文科Ⅲ類(文学部進学)。1975年、東大文学部仏文科を卒業した。
過去には東大生に正反対の話を…
「1970年代の日本はリッチだった」というツイートで物議を醸している内田氏だが、10年ほど前には今回と全く違ったことを言っていた。発言は、昨年4月に亡くなった“知の巨人”立花隆氏のゼミ(東京大学 立花ゼミ)のウェブサイトに残っていた。2011年3月に掲載された記事で、内田氏のような大学生活に憧れがあるという学生から、「どのように大学生活を過ごせばいいか」を問われた内田氏は次のように述べていた。
そうだなあ…中進国の大学生だから(笑)、とにかくみんな貧乏だったから。お金が無い中でどうやって工夫して楽しく暮らすかと。「じゃあキャンプでもするか」という感じですよね。他にあまり楽しみがなかったんだよ。今みたいにみんなお金を持っていて楽しいことがいっぱいあればそれは改めて…でも共同生活というのは本当に「お金がない」に尽きる。
学生はさらに、「今の若者もお金がないと思うが、当時の若者はよりお金がなかったのか」と聞く。内田氏の答えは次の通りだ。
そうだねえ、文化的にあまり子供のころから「お金が無い」ことに訓練されていないんじゃないかな。「金が無いなりに楽しもう」ではなくて、どうやって金を稼ぐかという方向に頭が働いている。僕らの頃は「どこに行っても金が無い」という感じだから。今だったら学生で起業したりするけど、僕らの頃はやってもやっても金は無いし、所詮知れてるわけで、そのわずかな金をみんなでどうやってやりくりして面白おかしく暮らそうかという風に考えざるを得なかった。
内田氏の学生時代はお金があったのか、なかったのか。当時、日本はリッチだったのか、そうでなかったのか。内田氏の認識は、どちらが正しいのだろうか。