モータースポーツの「歴史」に焦点を当てる老舗レース雑誌『Racing on』と、モータースポーツの「今」を切り取るオートスポーツwebがコラボしてお届けするweb版『Racing on』では、記憶に残る数々の名レーシングカー、ドライバーなどを紹介していきます。今回のテーマは、日本のスーパーシルエットレースを戦った『BMW M1』です。
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1979年から1980年代前半にかけて、ヨーロッパ発祥の車両規定『グループ5』を元にして日本で行われていたスーパーシルエットレース。参戦車両が纏うド派手なエアロから、熱狂の輪が広がったことで知られるこのカテゴリーは、“日産ターボ軍団”と称されるスカイライン、シルビア、ブルーバードという3車のイメージが強いという方も多いことだろう。
この日産ターボ軍団を常に脅かすライバル車が存在していたことをご存じだろうか。それが今回紹介する『BMW M1』である。
M1はシルエットの本場、ヨーロッパでもマーチやシュニッツァーなどのコンストラクターによってグループ5マシンとして戦っているが、今回は日本での活躍を紹介しよう。
M1というのは、そもそも欧州のシルエットレースで、ポルシェに対抗するマシンとしてBMWが“本命”として開発した2シーターミッドシップスポーツカーだった。
このM1、BMWにミッドシップ車生産の経験がなく、製造をランボルギーニに委託していたことから生産が遅れてしまう。そのため欧州におけるシルエットレースの終盤期といえる1979年、1980年頃になってもグループ5の車両公認に必要なグループ4の生産台数を満たせないという事態が発生していた。
M1が日本に上陸したのは、そんな窮地に陥っている最中の1979年のこと。スピードスターレーシングの手で輸入された。
日本に最初に上陸したM1は“プロカー”と呼ばれるグループ4規定の車両だった。プロカーというのは当時、F1の前座で、F1本戦に参加するドライバーたちも参戦したことで人気だったワンメイクレース『プロカー・レース』に使用されていたマシンのことである。
そんなプロカーのM1は1979年、まず鈴鹿500マイルという耐久レースへとエントリーした。このレースで高橋国光/長坂尚樹というふたりの手によってM1は、総合4位でフィニッシュ。クラス優勝を果たしたことで、そのポテンシャルの高さをいきなり見せつけた。
1980年になると、M1はいよいよスーパーシルエットレースへもデビューする。このレースでもデビューウインを飾り、1981年にかけても好成績を残し続けていたが、1982年に向けて転機が訪れる。
1981年の後半にクラッシュによって、M1は修復の必要に迫られたのだ。そしてこの修復をきっかけとして、プロカー仕様といえるグループ4規定車から、グループ5マシンへのモディファイが図られたのだ。
このモディファイは、1981年よりM1の所有者となっていたオートビューレックが担当。まずカウルを新たに製造してワイドボディ化し、これによって150kgほどの軽量化にも成功していた。
そのボディに搭載するエンジンは、尾川自動車チューンのM88型であった。グループ5仕様となっても、グループ4仕様のままターボ化されずNAのままだったため、出力もライバルである日産車に比べれば非力な470馬力程度だったが、それでもターボ軍団を脅かす速さを見せていく。
奇しくも日産ターボ軍団誕生の年である1982年にデビューしたグループ5仕様のM1は、その軍団車を凌駕する速さと強さを発揮。長坂尚樹のドライブで、参戦5戦中ながら3勝をマークして、1982年のシリーズチャンピオンを獲得したのだ。
1983年は全10戦中4戦に参戦。すべて日産車に続く2位フィニッシュというリザルトを残しているほか、スーパーシルエット最終年である1984年には、そのスーパーシルエット自体のラストレースとなった筑波戦で有終の美を飾って、日本のシルエットを締め括った。
ストレートスピードこそ日産の誇るターボパワーには敵わなかったが、マシンのトータルバランスを武器にコーナリングで日産ターボ軍団を追い回す。そんな姿を見せるM1は、スーパーシルエットレースを“レースとして”盛り上げるのに欠かせない立役者だったのだ。