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残された一葉の写真から色や細部を推測

昭和初期、タクシーを指す言葉として一般的だった「円タク」。東京市内なら行先がどこでも一律1円ということから生まれた言葉であることは、前編(下の関連記事を参照)で述べた。この料金は、交渉によって値引きすることも可能だったという。ここでご覧頂いているのは、その円タクの代表的な車種、横浜工場製のフォードを再現した模型である。これは作者であるプロモデラー・畔蒜幸雄氏の祖父、畔蒜幸蔵氏が当時乗務していた車両を再現したもの。後編では、これについて畔蒜氏に細かいことを語っていただこう。

【画像35枚】見事再現された円タクとそのフィニッシュ過程を見る!

「祖父は1903年(明治36年)生まれ、25歳で千葉県から上京し、自動車の運転免許を取得して住み込みでタクシーの運転手を始めました。ここでお見せしている写真は1930、1931年(昭和5、6年)頃のもので、後に見えるのは明治神宮の鳥居のようです。いわゆる『円タク』だったと思われますが、写真撮影を意識したのか、『市内一円』の表示板はありません。母が生まれたのもこの頃です。

その後、ガソリンが統制される昭和16年頃まで、祖父はタクシーの運転を続けていたようですが、その当時に使用していた車種などは不明です。おそらくフォードを乗り継いだのだろうと思います。戦時中、家族(祖母と母)は千葉に疎開していましたが、この時すでに40歳に近かった祖父は徴兵はされずに東京に残り、終戦を迎えます。祖父は戦後もタクシー会社に勤めていたそうですが、年齢の制限のためか運転手としてではなく、整備や修理部門にいたそうで、そこで定年となりました。

個人タクシーが免許制になった1959年(昭和34年)の第一次免許に応募するもこの時は不合格、翌1960年に免許を取得。そして、初代クラウンで個人タクシーにデビューしました。ボディに書かれた『幸タクシー』は名前の『畔蒜幸蔵』からきたもの。私の『幸雄』の1字も祖父から受け継いだようです。その後も2代目、4代目のクラウンに乗り継ぎ、79歳で亡くなるまで現役のタクシードライバーでした。

ただ、生前の祖父とクルマの話をした記憶はありません。クルマ好きだった訳ではなく、運転は仕事の手段に過ぎなかったようです。ただしモノ作りは好きだったようで、庭の古い物置などは祖父の手作りのものです。多分、私も(モノ作りの)DNAは祖父から受け継いでいるのでしょう」

4ドア・セダンのキットにはハブレー1/20もあるが……?
「さて、祖父の仕事のルーツであるA型フォード。これは形にしておきたいものでした。たった1枚残された写真から車種を特定できましたが、そのもの(4ドア・セダン)のモデルカーは存在しません。唯一、ハブレーの古い1/20モデルがありますが、スケールが大きいだけでなくダイキャスト製で、ややラフな作りに制作意欲が殺がれてしまいます。そこで、古いフォードにも造詣の深い周東氏に、レベルの1931年型をベースにボディ改造を依頼し、作例として実現することができました。

ボディ以外はキットのパーツをほぼそのまま使いましたが、キットの大元のベースは1961年製のウッディワゴン(H-1275)で、非常に古いものです。作例で使用したのは近年再販された2ドア・セダン(85-2169)ですが、タイヤ/ホイールは再販のウッディワゴン(85-7637)から流用しました。さすがに金型の劣化は著しく、大半のパーツにブラッシュアップが必要でした」

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