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 モータースポーツの「歴史」に焦点を当てる老舗レース雑誌『Racing on』と、モータースポーツの「今」を切り取るオートスポーツwebがコラボしてお届けするweb版『Racing on』では、記憶に残る数々の名レーシングカー、ドライバーなどを紹介していきます。今回のテーマは、グループCカーの『ニッサンR91CP』です。

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 今から40年前の1982年に産声を上げ、ニッサン、トヨタ、マツダなどの日本のメーカーも積極的に参加し、世界中で隆盛したプロトタイプスポーツカーカテゴリーのグループC。

 このグループCを戦っていた日本の自動車メーカーのなかでも、ニッサンのグループCプロジェクトは1983年に始動し、6年後の1989年には大きな転換点を迎えた。

 シャシーを市販マーチからローラの専用設計へとチェンジし、エンジンも林義正設計のVRH35を搭載するなど、それまでのニッサンCカーよりもポテンシャルの大きな向上に成功したのだ。

 ニッサンはそれに飽き足らず、1990年に向けてローラの不満点を改善するべくニッサン自らの手が入ったシャシーとオリジナルデザインのカウルを持つR90CPがデビュー。そしてポルシェより全日本選手権のタイトルを奪取するなど、ニッサンのグループCカーは、急速な進化を遂げていた。

 そしてR90CPで全日本戦のタイトルを獲得した翌年、ニッサンはR90CPをさらに磨き、進化させた。そうして生まれたのが『ニッサンR91CP』だ。

 このR91CP、R90CPの完成度が高かったことから基本的な作りは、大きく変わっていない。しかしカーボン製のモノコックがローラ製をベースにしたものから、完全なニッサン内製へと作り替えられたことが大きな特徴のひとつだった。

 また鈴鹿美隆が手がけたボディカウルも基本的なデザインはR90CPからの流れを踏襲するものであったが、リヤカウルにシュノーケル型のエアインテークが設けられるなど、各部にモディファイが施されていた。

 さらに搭載されるVRH35Z型エンジンは、あえて出力を少し落とし、ドライバビリティの向上を図るチューニングも施されていたようだ。

 こうして誕生したR91CPは、1991年の全日本スポーツプロトタイプカー選手権(JSPC)でデビューを果たす。その後、例年であればJSPCを数戦戦い、同年6月のル・マン24時間へとエントリーするはずであったのだが……。

 1991年、湾岸戦争が勃発。その影響という表向きの理由でニッサンは、R91CPによるル・マン参戦断念を決断したのだった。

 この1991年は、マツダ787Bが日本車として初めてル・マンを制した年。ニッサンも参戦さえできていれば……と悔やむ関係者も多かった。

 その後、R91CPはJSPCでトヨタ勢の猛攻にあうも辛くも2年連続のタイトルを獲得。そして年が明けて1992年2月、アメリカのデイトナ24時間レースでR91CPは快挙を成し遂げる。

 このデイトナ24時間レースでR91CPは見事、総合優勝を達成したのだ。バンク走行もあり、サーキットが海岸沿いであるために砂の問題もあったデイトナで、ドライバー、マシンともに不安要素を完全に拭えないなかでの戦いだったが、最終的には2位のジャガーを約10周も引き離す独創劇を披露。トップで24時間後のチェッカーフラッグをくぐり抜けた。

 ル・マン24時間こそ参戦自体が叶わなかったものの、ニッサンR91CPがデイトナで見せた強さによって、ニッサンのCカーが日本のみならず、世界の舞台でも戦える1台に進化したことを証明したのだった。

1991年の全日本富士1000kmレースを2位でフィニッシュした長谷見昌弘、アンデルス・オロフソン組のYHPニッサンR91CP。
1991年の全日本富士1000kmレースを2位でフィニッシュした長谷見昌弘、アンデルス・オロフソン組のYHPニッサンR91CP。
1992年のデイトナ24時間レースを制した長谷見昌弘、星野一義、鈴木利男、アンデルス・オロフソン組のニッサンR91CP。
1992年のデイトナ24時間レースを制した長谷見昌弘、星野一義、鈴木利男、アンデルス・オロフソン組のニッサンR91CP。