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 モータースポーツの「歴史」に焦点を当てる老舗レース雑誌『Racing on』と、モータースポーツの「今」を切り取るオートスポーツwebがコラボしてお届けするweb版『Racing on』では、記憶に残る数々の名レーシングカー、ドライバーなどを紹介していきます。今回のテーマは、グループCカーの『ジャガーXJR-14』です。

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 今から遡ること31年前の1991年。1982年にスタートして隆盛したプロトタイプカーカテゴリー、グループCは大きな転換点を迎えた。それまでのグループCといえば、レース距離によって使用できる燃料の総量が定められ、大パワーを発揮するエンジンを搭載しながらも“燃費レース”の様相を呈していたカテゴリーであった。

 それが、1991年から一変。燃料の規制が撤廃されて、エンジンは当時のF1と同じ3.5リッターNAとされた。これによってグループCは、以前よりもスプリント色の強いレースへと生まれ変わったのだった。

 そんな新生グループCの初年度である1991年に『スポーツカー世界選手権(SWC)』と名称を変えた世界選手権にはプジョー、メルセデス、ジャガーという3つのメーカーが新規定車を新たに開発し投入した(メーカー系としては同年最終戦でトヨタもデビュー)。そして、この3メーカーが選手権自体を牽引し、争う展開となっていった。

 3メーカーのなかでもこの年、驚異的な速さを見せて結果的にタイトルを獲得したのが、ジャガーXJR-14であった。

 XJR-14はジャガーの名は冠しているものの、エンジンなどはジャガーの技術が使われているマシンではない。マシンはトム・ウォーキンショウ・レーシング(TWR)の主導で開発が進められた。開発の指揮を執ったのは、当時TWRに所属していたロス・ブラウンだった。

 XJR-14以前にはアロウズのF1マシンをデザインし、この後にはテクニカルディレクターとして、ベネトンやフェラーリにタイトルをもたらした、あのブラウンである。

 ブラウンはXJR-14を開発するにあたり、スポーツプロトタイプカーでありながら、なるべくフォーミュラカーに近いマシンを作り上げることを志した。

 そんなXJR-14、これはプジョーの新規定車『905』にも言えることではあるが、特徴のひとつが“ドア”だった。ウインドウのサイドに開口部を設けて、そこをドライバーの乗降部とすることでドアを廃止。それまでドアとして必要な開口部までサイドシルとすることで、モノコックの剛性を高める作りとしていたのだ。

 さらにフロントセクション中央部には大きな空間を設け、そこにウイングを設置。リヤには巨大なウイングを装着するなど、空力面でも抜かりなくフォーミュラカーを目指した。

 そのシャシーには、F1でも使用されていたV型8気筒のフォード・コスワースHBをTWRがスポーツカーレース向けにチューニングしたものが搭載された。

 こうして誕生したXJR-14は、シーズン途中にはプジョーなどライバルの反撃もあったものの、シリーズタイトルを獲得。そしてこの年限りでメインスポンサーの撤退という理由で、ジャガーはメルセデスとともにグループCの舞台から姿を消した。

 ジャガーが走らせるXJR-14の世界選手権での活動はここで終了となったが、XJR-14の命が途絶えたわけではなかった。

 1992年にはマツダの新規定車、MXR-01として活用され、雨混じりの同年ル・マンで快走。その後さらにオープンプロトのポルシェWSC95へと変貌し、1996年、1997年のル・マン24時間レースを制した。

 姿を変えつつ、デビューから6年後のル・マンにも勝利してしまう。それほどミャガーXJR-14は先進性を持つポテンシャルの高いマシンだった。

1991年の世界スポーツカー選手権最終戦オートポリスを戦ったジャガーXJR-14。テオ・ファビとデイビッド・ブラバムがステアリングを握った。
1991年の世界スポーツカー選手権最終戦オートポリスを戦ったジャガーXJR-14。テオ・ファビとデイビッド・ブラバムがステアリングを握った。
1991年、オートポリスでの世界スポーツカー選手権戦を終えた後、全日本スポーツプロトタイプカー選手権のSUGO戦に参戦したジャガーXJR-14。写真は総合優勝を果たしたテオ・ファビ、デイビッド・ブラバム組の17号車。
1991年、オートポリスでの世界スポーツカー選手権戦を終えた後、全日本スポーツプロトタイプカー選手権のSUGO戦に参戦したジャガーXJR-14。写真は総合優勝を果たしたテオ・ファビ、デイビッド・ブラバム組の17号車。