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地元を離れて、仕事が忙しくて、コロナ禍で……そんなさまざまな理由でちょっとずつ足が遠のいてしまったお店。あなたにはありますか? マンガ家、ふじいむつこさんが尾道に暮らす人々を描く「尾道日々是好日」。第11回はいつもとはちょっと違ったお話をお届けします。

ぽつりと光る赤提灯のお店を営むのは……

 移住する前、尾道を訪れたことは何度かあった。幼少期に親に連れられてきたとき、高校生の頃、卒業旅行と称して友達と一緒に遊びに来たとき。しかし、いずれも記憶はあいまいで、あるとしても千光寺の展望台でソフトクリームを食べたぐらいしかない。

 宿泊して自分の行きたいところに行き、尾道の人と交流した、そういう意味できちんと尾道に訪れたのは、今から4年前の8月にさかのぼる。当時は新卒で就職した仕事を辞めたばかりで心身ともに疲れていたし、お金もなかった。尾道で古本屋を営む兄にアドバイスをもらいつつ、決められたお金の中で尾道を楽しむことにしたのだった。

 かと言って社交的な人間でもないので、喫茶店をめぐるか、本屋をめぐるか、暑い中外で漫画を描くかという感じで気づけば夜になった。一応、ゲストハウスに泊まり、何となく同室になった人たちと会話こそすれど、元来の人見知りを発揮してしまい、早々に自分のベッドに引きこもった。

 

 夜ご飯は好きな作家さんが訪れていたお寿司屋さんに行こうと決めていたので、旅の思い出話で盛り上がっている他のゲストたちを横目にいそいそとベッドから出た。いいのだ、私は尾道にここのお寿司を食べに来たのだと自分に言い聞かせながら、新開に向かった。しかし、いざ訪れてみると「予約でいっぱいなんです」という申し訳なさそうな女将さんの言葉で、その野望もいとも簡単に崩れさったのである。

 当時、新開は少し怖い夜の街という印象で、お寿司屋さんがダメとわかるとすぐに抜け出してしまった。あてもなく歩く。とりあえず海方向に歩いて、何もなかったらコンビニ飯にでもしようと決めたときだった。

 遠くに「おでん」の赤提灯の光が見えた。近づいてみる。静かだがお店は開いている様子だ。怖いお店だったらどうしよう。店主さんやさしいかな。と一瞬逡巡するも背に腹はかえられない。えいっと扉を開けた。

 奥に広いカウンターだけの店内。お寿司屋さんのネタが並べられるような冷蔵ケースがカウンターの上に乗っており、中にはポテトサラダなどのお惣菜が並ぶ。使い込まれた調理器具はパンチングボードにかけられている。奥の方でテレビがついていた。まるで祖父母の家のようだ。

 カウンターの中には、少し腰の曲がったハチマキのおっちゃんがいた。目が合う。少しびっくりしたような顔をされたが、すぐににっこりと笑って「どうぞ」と席を指してくれた。

 その日はカウンターにひとりお客さんがいて、私がビールを頼むとそのお客さんがビールを淹れてくれた。特に会話をするでもなく、頼んだおでんを食べる。味の染みた大根の味にホッとしたと同時になぜか「ああ明日もここに来よう」と思った。帰り際には「明日も来ますね」とおっちゃんにも宣言していた。

 約束通り翌日も訪れた。この日はおっちゃんと2人きりだった。ビールとおでんを頼む。特に会話もなく一緒にカープの試合をだらだらと見ていたが、おもむろにおっちゃんが話はじめた。

「お姉さん、旅の人?」

 私が「はい」というと、「そうかそうか」とうなずき、豆ご飯と肉じゃがを「食べんさい」とサービスで出してくれた。

 そしてお店の話をしはじめた。

「若い頃にここをはじめてね、この辺の夜のお姉さんたちにようかわいがられた。ないお酒ばっかり注文されて、あれには困ったわ」

 と少し苦笑するおっちゃん。

「最近は若い人も来てくれるようになってね、このおでんの蓋もあなごのねどこっていうゲストハウスの人が作ってくれたんよ」

 と誇らしげに蓋を掲げて見せてくれた。その後しばらく、あなごのねどこのスタッフさんがいかにやさしくてよい子たちかという話で盛り上がった。

「お店をやめようかと思うときもあるけど、お姉さんみたいなのがたまに来るからね、続けるんよ」

 と言うおっちゃんはこれからの野望を話す。「60歳過ぎたころから、やっと自分のやりたいことが見えてきてね。宝くじでも当てて、横丁みたいなの作りたいと夢見てるんよ」と言うおっちゃんの目はどこまでもキラキラしていた。

 そして、いきなり「お姉さん、絵を描きなさるんじゃろう?」と言われた。これには驚いた。特にそれらしい会話をしたわけでも絵を描く道具を持っていたわけでもないのにおっちゃんは言い当てたのである。そして、こう言った「続けなさい」と。

 帰り際、お勘定のときに「お代なんていらないんじゃけど」と言ってくれたがさすがに恐縮すると、本当にビール代ぐらいの値段のみ支払うことになった。「また来ますね」と言うと「またおいで」と笑って言ってくれた。

 自分の内側が温かくなるのを感じる。出てきた食べ物たちのおいしさもさることながら、素性の知れなかった私にやさしく接してくれたことが何よりうれしかった。そうか、私が今回尾道に来たのはこのお店に出会うためだったんだなとひとりごちて、尾道を後にしたのである。

 このときの話はインスタグラムで漫画にもし、「あのお店のこと描いてくれてありがとう」といろんな方から言われ、あらためてあのお店がたくさんの人に愛されているのだと知った。そんなお店に行くことができてよかったなとつくづく思ったものである。

時が経ち、あのおでん屋さんは今……

 その後、月日が経ち、2020年の秋に再び東京の仕事で心身ともに疲れた私は、尾道に向かった。あのおでん屋やってるかなと、前を通るが以前よりこざっぱりしている。「しばらく休みます」という文字とともに連絡先が書かれた貼り紙がしてあった。兄に聞けば「しばらくなぁ、休んでるみたいなんよ。入院しとんのかなぁ」と心配そうに言う。

 それでもこの街に来れば会えるだろうと信じて疑わなかった。会ったら言うのだ。「あのときはありがとうございました。おっちゃんのおかげで今も絵を描くことができています」と。そして描いた漫画を見せよう。どんな反応をしてもらえるだろうか、喜んでもらえるだろうか。

 その後、2021年に移住すると合間をみては、お店の前を通った。そんなある日、以前よりさらに店前がこざっぱりとしている。置いてあった鉢植えも、貼り紙もなくなっていた。心がざわついた。しかし、それでも万が一お店が閉まってしまってもおっちゃんに会うことができればいいと思っていた。

 悲しい知らせはその後、スリッツで飲んでいるときに兄から知らされた。

「おでん屋のおっちゃんな、去年亡くなっとったらしいわ」

 頭が冷えた。背中に嫌な感覚が走る。喉の奥がキュッと締まり、「そうなんだ」としか返せなかった。その後、兄が何か言っていた気がするが、もう何も頭に入らなかった。

 私が2020年の秋に尾道に来たときにはすでに亡くなっていたようだ。そんなことさえ知らず、お店がずっとあるだろう、おっちゃんにまた会えるだろうと信じで疑わなかった自分を呪った。あまつさえ自分は、自分が描いた漫画をおっちゃんに見せられると思っていたのだ。

 馬鹿だった、うかつだった。どうして、なぜ、もっと早く。自分を責める言葉を止めることができなかった。行けなかった言い訳ならいくらでも言える。「仕事が忙しかったから」「コロナが流行していたから」。自分を落ち着かせる言葉もいくらでも思い浮かんだ。「仕方がない」「あのとき訪れることができてよかった」。

 違う。私はただ、今、会いたかったのだ。ただ「ありがとう」と伝えたかったのだ。

 こういったことは何も尾道だけでのことではないだろう。愛していたお店が閉店してしまったり、店主が亡くなってしまったり、きっと日本各地であることだ。新しいお店ができるのと同じぐらい、お店が閉まっていっている。でも、なくなってしまったものは、なくなってしまったのだ。いつまでもその感傷に浸り続けるというのは、なんとなくどこかよくない気がする。

 今、私にできるのは今あるお店に行くことだ。おでんが食べたくなったら、スリッツがある。きっちゃ初、佳扇がある。一楽がある。行くことができるお店が両手では数えきれないほどある。それはなんと幸せなことだろうか。そういったお店に行きながら、思い出すことができるお店があるのも何と幸せなことだろうか。今あるお店と今まであったお店に支えられて、今の私がある。

 この文章が、言葉が、おっちゃんに届くとは思わないけれど、それでもどうか安らかに。私が今でも絵を描いていられるのはおっちゃんのおかげです。あのとき、お店に訪れることができて本当によかった。本当にありがとうございました。

 もしも願いが叶うなら、おっちゃんが作りたかった横丁で飲んでみたい。それが叶うまで、今あるお店で食べて飲もう。


ふじいむつこ

1995年生まれ。広島県出身。物心ついた頃からぶたの絵を描く。2020年に都落ちして尾道に移住。現在はカフェでアルバイトしながら、兄の古本屋・弐拾dBを舞台に4コマ漫画を描いている。

Twitter@mtk_buta

Instagram@piggy_mtk

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