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【編集部より】独自の視点で世相を斬り続ける村山恭平さんのコラム。前編では安倍元首相の国葬を巡る「迷走劇」を取り上げましたが、後編は、朝日新聞社が2年前に行った、村山さんの叔母で、同社社主だった美知子さんの社葬を、村山家全員で欠席した時の顛末を当事者として語ります。

東京・築地の朝日新聞東京本社(mizoula /iStock)

実は、社主制度の廃止が全てだった

昨日も述べましたように、社葬に参列しなかったのは、新聞社が創業家を「リスペクトをしているフリ」をしていることに付き合って「リスペクトされているフリ」をすることに耐えきれなかったからで、決定的だったのは社主制度の廃止問題でした。

漫画「おいしんぼ」にも出てきますが、新聞社にはしばしば「社主」という人物がいて、たいていは大株主です。けれども何しろ天下の公器様ですから、編集はもとより経営にも参加させてもらえない不名誉な「名誉職」です。我が愛する朝日新聞社の場合には、村山家と上野家の二家(なぜか「両家」という、披露宴じみた気持ち悪い呼称が慣例ですが)から1名ずつ、社主を出すことが定款で決まっていました。

村山家では、初代社主である祖父(長挙)のあと叔母(美知子)が亡くなるまで30年以上社主を務めており、叔母に子供がいないため私も一時は後継者と考えられていたこともありました。けれども約10年前、「朝日脳」と「紙」の輝かしい将来性に鑑み、自分の持ち株を全て損切り処分しました。これは会社側から見れば事実上の敵前逃亡で、村山家には次期社主の候補が不在になったということですが、私自身は自分の判断がもたらした現状に一応満足しています。

問題は上野家の方です。新卒で入社されたS君という後継者がおられたのですが、先代社主が亡くなられたにもかかわらず、5年以上も一社員のまま放置されていました。立派な定款違反ですが、それよりも社主になることに人生をかけた男に対して、あまりにも酷い仕打ちです。

そして、叔母が亡くなり村山家の社主が不在になった直後の総会において、上野家や多くのOB株主の反対を押し切る強行採決で、定款を変え社主家制度を廃止してしまいました。まあ、朝日脳のやることと言ってしまえばそれまでですが、乱暴な話です。

しかも総会で、会社提案である社主制度の廃止議案に、反対の意見を述べていた後に、強行採決をされたのですから、S君は社員としても居たたまれないでしょう。当代限りということででも社主としておいてあげるべきだったと思います。

あくまで仮定の話ですが、もし私が同じ扱いで、そこまでの屈辱を受けていたら、ガソリン缶を両手に抱えてしかるべき所に向かっていたかも知れません。

祭祀権も遺言もスルー

叔母の葬儀に関しても、この件の影響が多々ありました。今後は創業家をリスペクトしないという経営判断(それ自体はアリだと思います)をしながら、先代社主の「お別れの会」をしようというのですから、何をやっても矛盾が出ます。

神式葬儀のイメージ(イラストAC)

まず式次第の根本から問題発生です。村山家は伊勢の(貧乏)国学者をルーツに持ち、叔母自身も熱心な日本神道信者でした(私自身は違います)が、新聞社が準備したのは「無宗教」の「お別れの会」でした。そうでありながら、会の最後には献花があるそうですから、実態は「無宗教という名の宗教」でしょう。

もちろん私は「祭祀権を無視しないで」と抗議しましたが、当時のW社長は根拠もなく「祭祀権の無視とは言えない」と言い放ち一方的に話を進めました。おかげでこちらは、叔母がお世話になっていた神社の宮司さんに平謝りするなど、大慌てでした。靖国問題や日本会議がらみで会社として神道に含むところがあるにしろ、こんなところで妙につっぱるのですから、全く困ったもんです。

次に日程。会社側は、当初は2020年の5月の開催を提案してきました。例の定款変更の前に済ませてしまいたかったようですが、いくらなんでも、コロナが蔓延しかけていた時期に多数の人を集めるのは非常識でしょう。「迷惑だからやめましょう」と言えば、今度は翌年までの延期を提案。社主廃止騒ぎのほとぼりさめるのを待ちたかったのでしょうか。だったら、そんな失礼な会はやらないのが誰にとっても一番です。

会場も、叔母が日本初の定期的なクラシック音楽のフェス「大阪国際フェスティバル」を開催するために建て、祖父母の葬儀も行われたフェスティバルホールではなく、近隣のホテルの宴会場です。「パパやママと同じようにして」と叔母は常々言っていたのですが、完全に無視されました。

費用が問題なら、フェスティバルホールは事実上朝日新聞社の所有なのですから、平日の午前中にでも宮司さんと親族・関係者のみで簡素に行う方が、下手にホテルを使うより安くあがります。

朝日新聞大阪本社とフェスティバルホールが入る「フェスティバルタワー」(PhotoAC

遺族の神経を逆撫でしまくり

ことごとく故人の遺志を無視し、親族と何の相談もせずに葬儀を強行するとは、いい度胸です。故人に対するマウンティングとしか見えません。

当日、漫才師がよく着るようなピンクのスーツ(シースルー喪服は発明前)でビシッと決め、手製の武器(ハリセンが最適)を携えて乗り込むつもりでしたが、うっかりしていて気がついたのは翌日でした。彼ら朝日脳患者にも信教の自由はあるわけですから、こちらに迷惑が来ない限り、好きにしていただいて構いません。

それにしても、遺族に葬儀の案内状を出すというのもスゴイ話です。もちろん無視した上で一応、事務方には電話で欠席を伝えておきました。

困ったのは参列者への対応でした。事前に、「ボイコットしている村山家には申し訳ないけれども参列します」と言ってこられた方(銀行関係や政治家が多かった)や、後日「なんで、遺族が誰一人来なかったの」と尋ねられた方には、詳しい事情をお話した上でお参りのお礼を申し上げました。ちなみに、主催者側がどんな説明をしたのかは今に至るも知りません。

いずれにせよ、遺族の神経を逆なでするような葬儀ならやらない方がよほど上品ですし、この機会に何か経営上の意図を達成しようなどと考えるのは、某国葬儀と弔問外交と同じ発想で、故人をダシにしたハシタナイことです。

朝日脳の問題はいまさら言いませんが、背景には、宗教というもの自体が説得力を失っていることがあり、こういうドタバタが起こるのだとおもいます。言い換えれば、儀礼としての宗教に対する世間のまなざしも厳しさを増しているのです。