過去に大きな失敗をやらかした“しくじり先生”たちが自らのしくじった経験をさらけ出し、人生の教訓を伝授してくれる反面教師バラエティー『しくじり先生 俺みたいになるな!!』。
10月21日(金)放送の同番組では、漫才コンビ・ナイツが登壇。
現在、塙宣之が副会長、土屋伸之が常任理事を務めている“漫才協会”のしくじり歴史を暴露した。
◆漫才協会加入で「終わったな…」
所属芸人の錦鯉が『M-1グランプリ2021』で優勝するなど、近年大きな盛り上がりを見せている漫才協会。しかしナイツによると、協会は長い歴史の中でさまざまなしくじりを起こしてきたという。
もともと、漫才ブームが起きた80年代あたりまでは勢いを保っていたという漫才協会。
しかし90年代、各芸能事務所がお笑い養成所を創設するようになると、芸人になるには弟子入りが基本という“徒弟制度”が切り替わってしまったこともありどんどん失速。
デビュー当初、ナイツはポップ路線を目指しており、協会のことは知らなかったと打ち明けるが、芸歴1年目の2002年、所属事務所のマセキ芸能社の社長から命じられ漫才協会に入ることに。
当時は、“漫才協会=演芸場を活躍の場とする芸人”というイメージもあり、「ナイツ終わったな…」「もうテレビに出られないな!」と周囲からささやかれていたと明かす。
所属後は、昼は漫才協会が主戦場とする“浅草東洋館”、夜はマセキ芸能社主催のお笑いライブに出演する生活を送るようになり、客層の異なるステージをこなすうち、「漫才のテンポをどっちに合わせていいかわからない」という悩みが生まれ、「結果どっちもウケなくなった」という苦しい状況だったことを振り返った。
◆“浅草レジェンド”たちの規格外のしくじり
そしてその頃、新たなスターを生み出そうと試行錯誤していた協会幹部たちは、『M-1グランプリ』に影響を受けて2002年にある試みをスタート。
それが“漫才新人大賞”というイベント。賞レースを開催すれば話題になり、人材の育成にもなると考えたそうだが、本家『M-1グランプリ』に1700組を超えるエントリーがあったのに比べ、漫才新人大賞の参加者はわずか6組。
やむなく協会員以外の芸人たちにも門戸を開くようにしたものの、さほど話題にもならず、協会から新たなスターが生まれることもなかった、と塙は解説する。
あせった幹部たちは2005年、またまた“あるブーム”に影響を受けて新たな仕掛けを考える。
師匠たちが感化されたのは、当時の人気バラエティー『はねるのトびら』(フジテレビ)。この番組を見て、ユニットを結成すればウケるのではないかとひらめいた師匠たちは、ナイツをはじめとする若手に“漫才四天王”、“浅草三銃士”なるユニット活動をさせたが、結局のところまったく話題にならなかったという。
そんな協会幹部たちのしくじりを間近で見てきたナイツの2人は、「なぜ流行ったのか、その真理を理解せずに影響を受けるのはやめよう!」と教訓を語るが、「それ協会に言ってくれよ。オレたちじゃなくて!」(平成ノブシコブシ・吉村崇)、「師匠たちを座らせて(授業)やってよ(笑)!」(ハライチ・澤部佑)とツッコミを受けていた。
こうして幹部たちの方針に振り回されてきたナイツだが、ドラマの影響などもあって2005年に浅草演芸ブームが到来。それが後押しになり、「“浅草といえばナイツ”といわれるようになろう!」と決意したと明かす。
「今の時代、浅草の若手漫才師で売れた人がいないんだったら、そこを伸ばしていけば、もしかしたら遠回りのようで近道になるんじゃないかな」と思ったと話し、その後、本腰を入れて浅草をベースに活動。以前にもまして漫才に真剣に向き合うようになったという。
それを聞いた伊集院は、「めちゃくちゃエライじゃん!普通なら“浅草のせいで”とグチって終わる。こんなお客さんの前で(漫才やっても)オレたちうまくなるわけないじゃんって言いながら、うっかり20年経っちゃう人いっぱいいますからね」と大いに感心していた。