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 トラックショーの会場で、海コンドライバーのご主人ともども由美さんと出会ったのは、今から4年半ほど前のことでした。

 小学生の娘さんを連れた由美さんは、見た目はごく普通の明るいママさんトラッカーに思えましたが、今回の「素顔の自叙伝」で今日に至る心の葛藤や遍歴を知るにつけ、いろいろ考えさせられるものがありました。

 母として女として、さまざまな困難や思い悩むことが多いトラックドライバーという職業ですが、その中にあって、なおプロドライバーとしての技量と心構えを追い求める由美さんの姿には心打たれるものがあります。

文/ベテランドライバー由美さん 写真/由美さん・フルロード編集部
*2012年6月発行トラックマガジン「フルロード」第6号より


孤独だった子供時代 クルマに癒されたあの頃

 私は、物心つく前からクルマなどの乗り物が好きだった。それには理由がある。

 まず一番は、父親の経営する会社が児童用乗用玩具の製作会社だったこと。住んでいた場所が「交通公園」のすぐ目の前だったこと。父の会社で製作する乗用玩具の新作はまっ先に乗れたし、交通公園に行けば自動車や自転車のいない、足こぎ玩具専用コースを思う存分走れた。

 しかし、自動車のおもちゃで遊んでいたからといって、明るいおてんばな女の子だったかというとそうでもない。どちらかといえば、目立たない存在で、無口なおとなしい子供だった。

 家族は父母と、8つ歳上の姉の4人で、私はいつも遠慮がちに甘えることをせず暮らしていた。父母は隠していたようだが、私は自分が養女であることを薄々感づいていた。

 父が不倫をし、浮気相手の女性との間に生まれた子が私だった。母と2人でひっそりと暮らしていたが、母は病弱で、私が3歳の時に亡くなってしまったらしい。私は孤児になったが、父は私を捨てないでいてくれた。養女として正式に自分の家庭に迎え入れてくれたのだ。

 父はともかく、義理の母は複雑な思いだっただろう。家族はいてもいつも孤独だった。母は我が子のように接してくれたが、自分が素直になれず、また留守がちだった父ともうまく接することができなかった。

 そんな私も18歳になると、すぐ念願の普通自動車免許を取得した。自動車学校の入学料も、当然親にねだることなどできず、お年玉や小遣いをひそかに貯めて内緒で通った。免許を取ったことを父に話し、ダメもとで父のクルマを貸してくれと頼んだ。

 意外にも父は、「そうか免許取れたのか。じゃあ運転してみろ。助手席に乗ってやる」。

 父を横に乗せてはじめて走る道は、まるで最終試験のような感じだった。「クルマは使ってもいいけど絶対に事故だけは起こすなよ」とOKをもらい、それから暇を見つけてはドライブに出かけた。街へ、山へ、時には海へ……。

 運転ももちろん好きだったが、何よりも今いる場所からまったく違う景色の場所に「移動」できるということが一番楽しかった。私にとってクルマは、孤独感をまぎらわすための唯一の手段だったのかもしれない。クルマは、私を今いる空間から別の世界に運んでくれる。

 自分の手足のように操ることの楽しさ、家族や恋人とのドライブ、そんな「夢」を売る仕事がしたくて、自動車販売会社に就職をした。しかし、望んだ部署ではなく、法人リース部門だったので、いくら値引きするかが勝負の数字がすべての世界だった。

 ちょうど3年間勤めた頃、父の会社が倒産の危機に見まわれ、それをきっかけに以前から喧嘩が絶えなかった両親が離婚をした。

 私は父と2人で暮らしていた。しかし数カ月もしないうちに、父の以前からの浮気相手の女性が一緒に暮らすようになった。

 しばらく奇妙な共同生活が続いたが、次第に私は居場所を失っていった。私は家を出てひとり暮らしをすることした。心機一転がんばろうと決意し、自動車の営業職を辞め、トラックドライバーになったのだ。

憧れのトラックドライバーに そして厳しい「現実」の洗礼

 はじめての運送会社は、白紙を印刷工場に運んだり、印刷物を製本工場に運んだりするのがメインの会社だった。

 印刷物は自分で荷降ろしすることが多い。まずフォークリフトに乗れなければ仕事にならない。

 はじめの3日間はトラックに乗せてもらえず、朝から晩までひたすらフォークリフトで積み降ろしの練習をさせられた。その後、一週間の同乗期間を経て、晴れて一人立ちすることとなった。

 印刷物は荷崩れしやすい。先輩から「カーブはゆっくり曲がれ」といつも言われていたのに、ある日交差点で左折した時、見事に荷物を崩してしまった。

 幌シート付きの2トン車だったので、道路にバラまくという惨事は免れたものの、はじめての失敗にひどく落ち込んだものである。会社や荷主に怒られるかもしれないということより、自分の甘さに腹がたった。

 しかしその失敗以来、私は変なプライドを捨てた。「遅い」と思われてもいい。煽られてもいい。滅茶苦茶な運転をしていくら早く到着しても、荷台で荷物がグチャグチャになっていたり、交通事故を起こしたりしたら、運転手失格だ。

 荷物を安全確実に運ぶのが私の仕事なんだ。それがプロのトラックドライバーの仕事なんだ。そんな当たり前のことを、失敗してはじめて学んだのだった。

 走っていると稀に4トンや大型に乗っている女性ドライバーに遭遇することがあった。私もあんな大きなトラックに乗りたい。他の人達にできて私にできないはずはない。いつか大型トラックで全国を走りまわりたい! 憧れは目標へと変わった。

 私は昔から、思い立つと居てもたってもいられない性格で、ただちに帰り道にある自動車教習所に通いはじめ、大型免許を取得したのだった。

 今にして思えばいい会社だったが、私はステップアップのために、次の会社、大型で長距離メインの会社に入社した。

 大型は未経験ということで、まずは4トンのウイング車に乗ることになった。積み荷は、食品、衣服、航空貨物、ときには引越荷物。今までは積み荷が印刷物に限られていたので、その時々によって積み荷が違うということは新鮮だった。

 しばらくすると冷凍車に空きが出て、私が乗ることになった。

 冷凍食品会社の倉庫で積み込みが完了するのが20時頃。そこから車庫に戻り、日報を出し、夕飯の買い物をして帰宅。夕食をとり、風呂に入って23時半就寝。

 約120km離れた倉庫の指定着時間が、翌午前4時のため、遅くとも2時半には車庫を出発しなければならない。確保できる睡眠時間はわずか2時間程度。ときには家に帰らずトラックで仮眠したり、眠らずに直行したりする日もあった。

 朝4時から荷降ろしを開始し、そこからまた10軒ほど倉庫をまわり、荷台がカラっぽになるのはいつも午後。積み置きする倉庫に再び到着するのは夕暮れ時だった。

 倉庫に着けば積み込みのトラックでごった返している。順番待ちの時間が貴重な休憩時間となる。時間的・体力的にキツい部類の仕事だった。

 しかし、私は絶対に弱音を吐かなかった。本当は毎日がとても辛かったが、だけど負けたくなかった。

レベルの低い女同士のイジメ 普段の仕事ぶりが認められた喜び

 その会社には3人の先輩女性ドライバーがいた。私は普通に仲間として仲良くしたかったが、彼女たちは新人の私を歓迎してはくれなかった。

 私のすべての行動が気に入らないらしく、幼稚なイジメが始まった。休憩室でウトウトして起きたら靴が無くなっていたり、トラックに落書きされたり……。

 「おはようございます」「お疲れさまです」と挨拶してもことごとく無視され、「あんたなんかにトラックドライバーができるわけないじゃん」「目障りなんだよ! 早く辞めれば?」と言われたり……。

 確かに私は、少しヤンチャな彼女たちと違って、ハタから見ればチビでひ弱そうで、トラックドライバーという感じでは無かった。そんな新参者の私が、他の男性ドライバーとはすぐ打ち解けて、楽しそうに話をしたりしているもんだから、なおさら腹を立てていたのだろう。

 悔しかった。だから絶対に、尻尾を巻いて逃げ出すようなことはしたくなかったのだ。負けたくなかった。仕事を完璧にこなして見返してやりたかった。

4トンの冷凍車の仕事は時間的・体力的にかなりキツい部類だった

 彼女たちも仕事となれば、商品事故や交通事故、延着などはなく、そつなく業務をこなしていた。しかし、彼女たちの仕事は同じ冷凍でも、朝4時に出発し、都内の倉庫を数軒まわり、積み置きしても夕方には終了というものだった。

 私にはそれが好都合でもあった。その会社の給料体制は、基本給に自分の運んだ荷物の運賃の売上の10パーセントが上乗せされる歩合制だった。

 入社して数カ月目の給料日、所長に言われた言葉が忘れられない。「お疲れさま。いつも大変な仕事がんばってるよね。今月の売り上げ、冷凍車のなかでナンバーワンだよ」。

 嬉しかった。私のことを毛嫌いしていた彼女たちに売り上げで勝ったことも嬉しかったが、それよりも無口でクールな雰囲気で近寄りがたかった所長が、きちんと自分の仕事っぷりを見ていて、理解してくれたことが何よりも嬉しかった。

 やがて私は、仕事を通じて知り合った大型トラックドライバーと結婚をした。でも、結婚しても仕事を辞めることは考えられなかった。大型車に乗りたい。しかし、いつまでたっても4トン車ばかりである。

 そんなとき、とある運送会社の所長から、「今ちょうど大型運転手募集してるんだけど、そっちで乗せてもらえないなら、うちに来れば? すぐに乗れるよ」。所長の甘い誘い文句に、大型に乗りたいという思いで膨らんだ心が揺らがないはずがない。

 「はい! ぜひお願いします!」。私は咄嗟にそう答えていた。

 私は晴れて念願の大型トラックドライバーになった。4トン車とは、クルマの大きさはもちろん、積み荷の量や重さも違う。運転や仕事に慣れると、関西や東北方面の荷物も任されるようになった。

 夢を実現し、毎日がさらに充実していた。ずっとこの仕事を続けたい。そう思っていた。

妊娠・出産・保育園探し・仕事探し 復帰に立ちはだかる「現実」の壁

 それから2年ほどして身体に異変を感じた。妊娠2カ月……。まさかこんな時に……。嬉しい反面、トラックを降りなければいけないという寂しさがあった。

 子供が産まれたら、もう二度とトラックには乗れないかもしれない。そんな思いもあり、妊娠4カ月目で退職するまでの毎日は、思う存分トラックドライバーという仕事を楽しんで、思い出を作ろうと思った。

 お腹をさすりながら、まだ見ぬ我が子に語りかけ、ドライブを楽しんだ。

 「ママは今、おっきなトラックに荷物を積んで、海の見える道を走ってるよ」「段差でガタガタするね」「このエンジンの音聞こえるかな? 子守歌みたいだね」「ママと一緒にトラックに乗って、いろんなところへ行ったこと、覚えていてね」

 正直、まだまだ未熟な自分が母親になるなんて考えられなかった。しかし、人間の本能とは恐ろしいほど素晴らしい。子を宿した瞬間に、女性は母へと変わるのだ。

 何度も挫折した禁煙も、お腹の子のためにスパッと止めることができた。トラックも……?

 しかし、そうはいかなかった。娘が1歳を過ぎヨチヨチ歩きを始めた頃、無性に仕事が、トラックが恋しくなった。昔からのじっとしていられない性格は、母になっても治まることはなかったのだ。

 1歳の娘を安心して預けられる場所はなかなか見つからなかった。市の保育園はどこも待機児童がいるくらい定員いっぱいで、受け入れてはもらえない。

 それ以前に、保育時間が朝8時から夕方6時までなんて、トラックドライバーの仕事上絶対にムリだ。料金は倍以上高かったが、民間の24時間営業の保育園に娘を預けることにした。

 保育園探しも大変だったが、仕事を探すのがさらに大変だった。求人広告や求人誌でドライバーを募集している運送会社に片っ端から電話した。再び大型車に乗りたいという気持ちもあったが、雇ってくれるなら2トンでも4トンでも、トラックならなんでもよかった。

 「うちは朝早いし、夕方に帰れる仕事はない」「バラ積みだから女性にはムリ」「長距離があるからお子さんがいる方はちょっと……」。

 やんわり断わられるならともかく、「うちは女は雇わないよ!」といきなり言われ、一方的に電話を切られたことも……。

 女であり、また母であることが再就職の障害になることを、はじめて痛感した。

 特に運送業では「女は運転がヘタ」「仕事ができない」「力がない」「子供を理由にすぐ休む」など、まだまだ肩身の狭い思いをしている女性が少なくないのだ。

 ならば私が変えていこうじゃないか。女性トラックドライバーに対する、世間の偏見を……。

 微力かもしれないが、これからトラックドライバーになろうとしている女性や、復帰を目指すママトラッカーのためにも……。そう決意した。

 それからいろいろな運送会社に問い合わせたが、いい返事はもらえず、面接にすらこぎ着けなかった。

 最終手段として出産前に勤務していた会社に電話をかけた。これはあんまりやりたくなかったことだ。

 また働きたいとお願いすれば、「大丈夫だよ、戻っておいでよ」と、お情けで言ってもらえるかもしれないが、人に甘えるのが苦手だしイヤだった。でも、どうしてもトラックに乗りたかった。夢を諦め切れずにいた。

 思い切って電話をすると、案の定、所長からよい返事がもらえた。最近2トン車で印刷工場専属の配送に新規参入し、これからあと2台増車する予定とのこと。

 「その仕事なら印刷工場に朝8時前に入ればいいし、夜も6時には終わるし、ちょうどいいんじゃないか?」

 所長の問いに躊躇するはずもなく、私は「はい、ぜひお願いします! 印刷物は得意ですし、頑張ります!!」と答えた。私の忙しい日々が再び始まった。

(後編に続く)

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