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28歳で芸人としてデビューした後、ミュージシャン、俳優、文筆家としても活躍し、幅広い分野で才能を発揮しているマキタスポーツさん。

“音楽”と“笑い”を融合させた「オトネタ」を提唱し、ライブ活動を各地で実施。2012年に公開された映画『苦役列車』(山下敦弘監督)で第55回ブルーリボン賞新人賞&第22回東京スポーツ映画大賞新人賞を受賞。『ビットワールド』(NHK Eテレ)、『マキタ係長』(山梨放送)、『東京ポッド許可局』(TBSラジオ)などテレビ、映画、ラジオに多数出演。

2022年、初の自伝的小説『雌伏三十年』(文藝春秋)を出版。10月14日(金)に映画『MONDAYS/このタイムループ、上司に気づかせないと終わらない』(竹林亮監督)の公開が控えているマキタスポーツさんにインタビュー。

 

◆高校時代、剣道の県大会で個人準優勝

小さい頃はわんぱくだったというマキタさん。小学校2年生のときに剣道をはじめ、中学時代はあらゆる大会で個人優勝を果たし、中学校では表彰されたという。

「子どもの頃は、非常に聞き分けのない、決して要領もいいタイプではなかったですね。賢くもないし、目立ちたがり屋で暴れん坊だけど涙もろくて…とにかく理知的な子どもではまったくなかったと思います」

-涙もろいというのは、感受性が豊かだったということでしょうね-

「僕は本にも書きましたけど、生きていることがあまり楽しくないなあと思っていましたね。何か行動するたびに怒られるみたいな感じだったので(笑)。

親とか先生が言っていることの意味もあまりよくわからないというか、『何で怒られているんだろう?』って、いつもそんな感じでした。小学校の高学年になるまで全然楽しくなかったですね」

-剣道をはじめられたのは?-

「小学校2年です。最初はおふくろが『剣道してみない?』って言って、僕は剣道が何かよくわからないので、とりあえず稽古を見に行かされて、『やりたい』って言ったらしいです。あまり覚えてないですけど、気がついたら行くようになっていました」

-強かったのですね。良い成績を残されて-

「最初はただ棒切れを振り回しているだけの感覚でしたけど、小学校6年生くらいになったらわりと強くなってきたという感じで、小6くらいからは、狭い地域の大会とかでは優勝したりするようになっていましたね、しょっちゅう」

-高校には剣道で推薦されて?-

「そうです。高校に体育学科というのがあって、そこに剣道で入りました。ある種当たり前だと思っていたところがあったのかな。親も兄も親戚も男はみんなその高校に行かなければいけないという、そういう教育をされてきちゃったので、自然な流れでしたね。

またその学校が伝統校で、山梨県内でも2番目くらいに古い公立高校なんです。それでエリート意識も強くて、そこに入らないやつはダメだと高校側も言うし、うちの親もいうので、当然そこにということだったんですよね」

-剣道をやりながら、ギターもはじめるように?-

「そうです。中学のときに。剣道もそんなにやる気がなかったけど、たまたま狭い地域で良い成績を残していたということで、別に剣道が好きというわけではなかったんです。

それで、ギターもものすごく好きだとかいうことではなかったんだけど、ただただ目立ちたいからギターを手にしたというぐらいの感じです。ドラマティックなものとかではなくて、本当にそんな感じでしたね。

僕の出た中学では、ギター、エレキギターを弾く子というのはいなかったんです。誰もいなかったからやったということです」

-いきなりエレキギターですか-

「そうです。僕らの時代はエレキギターですよ。吉田拓郎世代の人とかだったらアコギ(アコースティックギター)を買ったでしょうけど、僕らはもうエレキギターでしたね」

-弾き方はどのようにして学んだのですか-

「四つ上の兄の友だちにギターが上手な方がいたので、その方に教えてもらったのが最初です。あとは教則本や、『明星』とか『平凡』という雑誌にソングブックというのが付いていて、その裏のほうにコード表が付いていたので、それでコードを覚えて、その当時流行(はや)っていた曲で弾きたいものを弾いたりしていました。

あとは長渕剛さんがラジオで『ギター講座』というコーナーをやられていて、それで『ギターっていうのはおもしろいなあ』と思ったのが最初です。

それまではただ単にエレキギターを持っていればいいと思っていたんですけど、『ギターっておもしろい楽器なんだ』って思ったのは長渕さんきっかけですね」

-そのときは将来音楽でやっていきたいという思いは?-

「思っていました。最初は芸人になりたくて、小学校6年のときにそんなことを文集に残しているんですけど、ギターが楽しくなってきた頃からは、ミュージシャンもいいなって思うようになったので、両方やりたいと思っていました」

-まさに今その通りになっていますが、当時は?-

「(ビート)たけしさんも歌を歌っていましたし、とんねるずさんも歌っていました。ただ、たけしさんもとんねるずさんも僕が大好きなお二方ですけど、楽器は持たれていなかったので、楽器を持った形でやられていて憧れた芸人さんというのはいなかったですね。

タモリさんもトランペットを吹いていましたけど、それがテレビでやるメインではなかったですし、所ジョージさんは、芸人というよりも基本的におもしろいミュージシャンという感じでしたしね。

僕らの世代は、はるか前ですけど、(ハナ肇と)クレイジーキャッツとか初期の(ザ・)ドリフターズには間に合っていないんですよね。直接は見られてないじゃないですか。

だからバンドでおもしろいことをやるというのはそんなになかったですね。地方だったし、ライブハウスがないので、ライブハウスレベルでおもしろいことをやっていた人たち、爆風スランプとか聖飢魔II、筋肉少女帯とか、そういう人たちの活動、活躍は全然見ることができてなかったんですよね。

そういうパフォーマンスをやっている方は僕の目に入ってなかったので、“音楽”と“笑い”を融合させる形というので目立ちたいなあと思って。それも人がやってないからという、そういう意識ですね。

やってないことはないんですよ。やっている方はいらしたんです。ただ僕の目に入ってきていなかったというだけで。でも、人がやってないことをやって目立ちたいというのが原点としてはすごくあったのかなあとは思います」

※マキタスポーツプロフィル
1970年1月25日生まれ。山梨県出身。マキタスポーツ用品店の次男として誕生。ミュージシャン、芸人、俳優、文筆家、小説家としてマルチな才能を発揮。映画『前科者』(岸善幸監督)、『劇場版 きのう何食べた?』(中江和仁監督)、『面白南極料理人』(TVO テレビ大阪・BSテレ東)、『闇金ウシジマくん外伝 闇金サイハラさん』(TBS系)など多くの映画、ドラマに出演。『一億総ツッコミ時代』(槙田雄司名義/星海社新書)、『雌伏三十年』など著書も多数。2022年10月14日(金)、同じ一週間を繰り返しているオフィスでタイムループのキーパーソンを演じる映画『MONDAYS/このタイムループ、上司に気づかせないと終わらない』が公開される。

 

◆大学進学で上京。五月病から引きこもり状態に

1988年、大学進学のために上京したマキタさんは、4歳上の兄と暮らしはじめるが、東京での日々は考えていたものとは大きく違っていたという。

「地元ではお山の大将でしたからね。小学校の5年生ぐらいまでは全然楽しくなかったけど、小学校6年くらいから高校3年くらいまでは、急に全能感を持っちゃったので、『超イケてるなあ』って自分で思っていたんですよ。

なので、そのまま僕は東京に出てきても通用すると思っていたんですけど、東京の人は僕のことを全然知らないんですよね。当然なんですけど(笑)。

地元ではみんな知り合いだし、僕がマキタスポーツ用品店の次男坊だと知っていたんですよ。狭い地域でスポーツ用品店はあまりなかったので、その時点でもう有名人じゃないですか。そういう中で、剣道で活躍したりしてちょっと目立つ存在ということだと勘違いしやすいわけですよ(笑)。

兄もおやじも行っていた学校にそのまま入学したので、学校の先生が僕のことを知っていたし、学校の先生が僕のお母さんの同級生だったりして、『〇〇ちゃんの息子か。お前ちょっと目立つから気をつけろよ』なんて言われるすごい甘ったれた中で、何か二世議員とか二世タレントみたいなものですよ(笑)。

だから余裕しゃくしゃくだったんですけど、東京に出てきてからまったくそれが通用しないので、まずゼロからコミュニケーションをしていくための言葉とか、技芸がないということに気がつく。それにちょっとびっくりしてカルチャーショックでしたね。それで五月病になって大学に行かなくなり、半年ぐらい引きこもりになったんです。

それでちょっとまずいと思って、大学に戻ったんですけど、大学ではもうちょっと出遅れちゃったし、お金もなかったのでバイトするしかないから、バイト先でちょっと頑張ってみようと思って。それで、バイト先でチャラチャラしだしたんですよ(笑)」

-引きこもり状態から行動を起こすきっかけみたいなことはあったのですか-

「何だろう? 『こんなはずじゃない。俺がこんなわけないだろう?』って思ったことですかね(笑)。本当は大学自体も変えたかったけど、勉強するのも鬱陶(うっとう)しいし、できないし、とりあえず大学には行くけど、自分をフレッシュな気持ちで受け止めてくれるバイト先から構築していこうと思って、ちょっと挽回を狙ったという感じですね」

-東京ではライブなどにも行かれていたのですか-

「いやあ、最初に馴染(なじ)んだコミュニティーが飲み屋の世界だったので(笑)。その人たちがライブハウス文化の人たちじゃなかったので、結構そっち側にちょっと染まっちゃいましたね。

サパー(クラブ)というか、当時はカラオケパブとかなんですよ。そういうところで働いて、そういう人脈ができちゃったので、ライブハウスとかに本当に行きたいし、ロックの話とかもしたかったんですけど、そこでCHAGE and ASKAとかをハモッて歌っていました(笑)」

-とても素敵な声なので人気だったでしょうね-

「ウケましたよ。ウケないと自分のアイデンティティが壊れちゃうので、ウケるために自分が普段聞かないような歌を歌っていましたしね。使う曲と聞く音楽を分けていたみたいな感じで。カラオケでウケる曲と歌っちゃいけない曲を選別して、ウケる曲を覚えてそれを披露するという感じでした」

-感性が豊かなのでしょうね-

「それは間違いなく感性だと思いますけど、ウケるウケないかということが結構重要だったということですよね。

甲斐バンドはOKだけどARBはダメとかね(笑)。そういうことです。ヒット曲があるとか、『(ザ・)ベストテン』(TBS系)に出たことがあるアーティストだったりするとかね。それでみんなが知っている曲があるということとか、そういう目線。

それもウケるからですよ。だから僕は、手を叩いたらそっちのほうにからだを向けて揺らすフラワーロックみたいなもんだと自分のことを思っているんです。ウケる方向にしか体を持って行かない。感性ってそういうものだから、僕にとっての感性の土壌というのは、ウケるかウケないかみたいなことがやっぱり結構大きいかなと思っています」

-大学卒業後、地元に帰られたそうですが-

「それは、当時付き合っていた子がいて、その子ともう一回ちゃんと東京でリスタートしたいと思って。その頃から僕は今みたいなことをやりたいとは思ってはいたので、東京の暮らしを一度リセットしてお金を貯め直したいということで、期限付きで帰りました」

-地元のハンバーガー屋さんで副店長さんになられたそうですね-

「それは親戚がやっている店だからですよ(笑)。そんなのぼりつめたわけじゃないです。半年ぐらい働いてお金を貯めてまた東京に戻りました。

大学時代は4年間兄と一緒に住んでいたので、兄と一緒に暮らしていたら彼女とイチャイチャできないじゃないですか(笑)。

だからイチャイチャしたいがために山梨にいったん帰ったということですね。それでお金を貯めて再上京して念願の彼女とイチャイチャする(笑)。すみません、そんなもんなんです(笑)」

マキタさんは、28歳のときにピン芸人としてデビューし、ミュージシャンとしても本格的に活動をスタート。今やドラマ、映画に引っ張りだこで、文筆家、作家としても知られているが、仕事が上向きになりはじめたのは40歳になった頃からだったという。次回は、『アウトレイジ』、『苦役列車』の撮影裏話も紹介。(津島令子)

ヘアメイク:永瀬多壱(VANITES)
スタイリスト:小林洋治郎(Yolken)
ジャケット/FACTOTUM/Sian PR
シャツ/remember/Sian PR
ベレー帽/MAISON Birth/Sian PR