ゲンロンの東浩紀さんと上田洋子さんに聞く「教養とは何か?」。前編の①では、教養は何かの役に立つものでもなければ、必要に迫られて身につけるものでもない……そんな話をお聞きしたが、それでは教養とはいったいなんのためにあるのか? 核心部分に迫る後編の②をお届けする。
撮影:吉村 永
教養はなんのためにある?
――お二人には、教養に対して役に立つかどうかという視点はまったくないんですね。
上田 わたしはまったくないですね。むしろ何かに役立てようとだけ思って本を読んだりするのは苦痛ですよ。
東 実体験として教養は役に立ったためしがないですよ(笑)。
――ついつい学ぶ意義を求めてしまったりしますが。
東 「よく生きる」ために学ぶのはいいと思うけど、学ぶことそのものを目指すのはよくわからない。だから、よくいわれる生涯学習というのも、ちょっと疑問に思うんですね。学ぶことそのものを目的にしてもしかたないと思います。ぼくにとって本を読むことは学びじゃなくて、単に楽しく生きるためなんですよね。
読書は学びに関係しているように聞こえるけど、たとえば音楽を聴くこととイントロ当てクイズは違うでしょう。今、教養を身につけろ、学びが大切だと言っているひとたちのなかには、単にイントロ当てクイズを薦めているひとがいると思います。大事なのは音楽を聴く生活のはずなのに、イントロを聞いたらすぐ曲がわかるような知識の鍛え方をしていて、それが教養だと思っている。そうではなくて、音楽のある生活を送るのが、教養があるということなんです。本を読むのも同じで、楽しく生きるための一つの方法なんですよ。
――日々の仕事ではイントロクイズの能力を求められることも多そうです。
東 むろん、何か知識を入れて臨むことが必要な局面はあります。会議でプレゼンするとか数字を言わなければいけないとか。当然、ぼくもやっています。でもそれはぼくにとってあまり大事なことだと思ってない、ということです。それは業務だから、業務としてやればいい。でも教養はそういうものではない。生活改善みたいなものです。
そして、生活改善は効率よくやるものではないし、正しいやり方があるものでもない。生活をよくするために、豊かにするために教養が必要なら、そのときに教養を身につければいいだけの話です。
――なるほど。仕事に関係ない本を読んでいると、たまに罪悪感を覚えることがあるんですが、学んだことは仕事に生かさなければいけないという気持ちが強いのかもしれないです。
上田 そういう強迫観念を持つ必要はないでしょう。もっと気楽でいいと思います。わたしも仕事で読む必要がある場合はありますが、やはり自分が読みたい本のほうが楽しいし、頭にもちゃんと残る。何かを書くためとか無理やり読む本は、読んだという事実しか残らないこともあります。とはいえ、たまたま仕事で読んで、ずっと心に残る本と出会う場合もありますけどね。
東 みんないろいろなものに期待しすぎなんですよ。自分をよくしてくれる環境とか、自分を守ってくれる環境とか。ぼくも昔はそうだったけど、「プロデュースされたい願望」とかあるじゃないですか。「俺は環境さえよければもっと能力を発揮できるはずだ」と。そういう幻想からいかに脱出するかが大事です。
そもそも自分の能力を最大限発揮できる環境なんてないんですよ。だから自分の能力はかなりムダになるかもしれない。でもそんなもんだと思うのが大事です。たしかに、「なんでこのひとはこのていどの能力でこんなにお金を稼げるんだ? 有名なんだ?」というひとはときどきいます。でも、それは宝くじが当たったようなものだと考え、スルーしておくしかないわけです。
なにごともあきらめが肝心です。こういうとすごい後ろ向きに聞こえるし、今の時代は反発も受けそうだけど、まずその前提がないといろいろ失敗すると思います。だからぼくは、勉強したらうまくいくとか、あまり言う気がない。そんなのウソだと思ってしまう。
たとえば語学がわかりやすい例だけど、語学を一生懸命勉強しても、それが役に立つかどうかはわからないですよね。語学はスポーツみたいなものだと捉えないと、やることが虚しくなってしまう。なぜ人は10キロも走れるのかといったら――といってもぼくはまったく走らないんだけど――走るという運動を楽しむためでしょう。10キロ移動するためだったら機械を使えばいい。語学もそういうもので、とくに今後自動翻訳は非常に精度が上がるだろうから、ぼくたちが生きている間に人間の通訳や翻訳者はほとんど必要なくなる可能性もある。発言や本の内容だけを知りたいなら自動翻訳でいい。それなのになぜ語学をやるのかといったら、楽しいからですよ。
教養も同じだと思います。知識を得るだけならば検索すればいい。計算も機械にさせればいい。というか、なんでもAIにさせればいいわけです。実際、そういうことを言うひとはいますよね。でもそれは根本的にまちがっている。それならそもそも生きる必要もないじゃないですか。
だから、勉強というのは、勉強そのものが楽しくないといけなくて、そもそも我慢してやるものではない。つらいけどがんばるんだ!みたいな勉強は受験くらいでやめておくべきでしょう。やはり身体がキーワードなんじゃないかと思いますね。知識を自分の身体の中に入れて、生活が豊かになるために教養はある。
――今の社会は不安定で自己責任論も強く、なかなか生活を豊かにしようとする気持ちの余裕が持てないというひとにはどう言えるでしょうか。
東 鶏が先か卵が先かみたいなところがあるから答えづらいですが、経済的に困窮しているひとたち以上に、心理的に困窮しているひとたちが多いように感じますね。余裕を持つというのは結局のところは気持ちの問題です。ぼくがこういうことを言うと必ず反発を買うんだけど……基本的に仕事はサボッても「いい」し、約束を破っても「いい」んですよ。むろんそんなことをやれば怒られるし、仕事もなくなるし、友人もなくなるかもしれない。でもそれが覚悟のうえであれば人間には基本的に自由がある。そう思っておくことが大事じゃないかな。
今は、日本特有の同調社会とSNSの組み合わせによって、おそろしく生真面目な社会になっている。みながつねに批判されるのを恐れていて、とても気詰まりな社会になっていると思います。そういうことから距離を取り、ある程度の無責任さを自分の中で許容しないと、お金があっても余裕は生まれない。まずはそういう心理的な気持ちの切り替えが大事だと思います。
――切り替えられるでしょうか?
東 大丈夫ですよ。なんとかなります。そもそも仕事を放り投げる人間ってすごい多いんですよ。ゲンロンも最初からそれで苦しんできた。『ゲンロン戦記』に書いたもの以外にもいっぱいエピソードがあります。たとえばある単行本について、自分が全部編集をやるって言って、デザイナーも決めて予算もとり著者にも連絡して企画を膨らましておきながら、いざ実務が発生したら逃げ出し、SNSでは快調に更新を続けていたとんでもない編集者がいたことがある。それでもまあ、だれかが尻拭いをするわけです。
――なかなか無責任な行動ですね……!
東 もちろん無責任ですよ。ぼくもむろん当時は激怒しました。でも仕方ないですよね。尻拭いするしかない。そして正直、この10年であまり怒らなくなってもきました。「ああ、このパターンは知っているぞ、こいつはもう明日から来ないな……」とわかるわけです。そんなふうに経営者も慣れてくる。
ただこれは、無責任なことをやっても「許される」という話ではない。許されはしないです。でも、あなたが無責任な行動をとっても世界が滅びるわけではない。だとすれば、本当に苦しいならば逃げたって「いい」し、仕事を放り投げられたりしても「いい」よ、ということです。言い換えれば、他人に怒られて嫌われる覚悟を、みなもう少し持ったほうがいいということ。みんなに好かれようとしていたら、生活の余裕なんて絶対に生まれないと思いますね。
教養にライフハックはいらない
――東さんは「#ゲンロン友の声」で、「どうしたら本が早くよめますか」という質問にお答えになっています。そういうライフハック的な技術と教養は関係のないものだったんですね。
東 たしかにぼくはそういうこともやっています。ゲンロンカフェでいろいろなイベントに連続で出演し、そのつど頭を切り替えてしゃべる必要があるので。先日も中島隆博さんという中国哲学者の方と「中国において正しさとはなにか」という対談をしたのだけど、基本的な事項を間違えないように頭に叩き込んで臨んだ。そういう努力があるからこそゲンロンカフェはできている。でも、それは本質的にはどうでもいい話です。
自分ではスポーツを一切しないくせにまたスポーツでたとえるけど、ぼくをリフティングがうまい人だと思ってください。とにかくリフティングがうまい。見た人は「おーっ」と思う。でもそれで実戦で勝てるわけではないんです。実戦にはほかのいろいろな能力が必要です。本を早く読み、とりあえず固有名詞を覚えておくというのは、リフティングみたいなものです。
そもそも、サッカーを好きな人がみんなプロサッカー選手になるわけではないです。大事なのは、自分の生活の中にサッカーを入れることです。それが教養。ぼくはその点ではプロだから、ボールの上手な蹴り方やリフティングのコツを知ってはいる。でもぼくはそれを商売にして、ショーみたいなことをするから技術が必要なだけ。その技術だけ身につけても、ふつうの人にとっては生活を豊かにすることにならない。
上田 ふつうの人はそんなにたくさんトークショーしないですからね。
東 そうそう。3日間で中国哲学の本を何冊も読んで、頭のなかに叩き込んでイベントに出るような機会はないと思います。
――そういう短期間で詰め込む、東さんならではの勉強方法にもニーズがありそうです。
東 ぼくはかなり独学の人で、いわゆる独学王とか雑学王的なひとだと思うんですよね。でもその方法を自慢する気になれない。ぼくはそもそもマニアックだったから、受験勉強していたときは東大の20年分ぐらいの過去問をすべて解いたし、過去問を解くときは、ちゃんと本番と同じ時間に合わせ、外着に着替えたりもしてました。高校から大学にかけては読書メモもつけていて、本を買ったら購入日と読了日も必ず書いて、読書の進捗を管理するようにもしていた。でも、あるときそういうのすべてに疲れちゃって、それ以後はノートはつけない、締切は守らないみたいなひとになってしまった。そして今に至る。
そもそも、そういう訓練でできることは、知の中ですごく小さい範囲だと思うんですよ。さきほどリフティングの比喩を出したけど、本を読むことだけで鍛えられる知能の筋肉はすごく小さいと思う。むしろ本を読む以外のことで鍛えられるもの、つまり身体性が大事。ぼくの20代後半から30代はそのことに気づいていくプロセスだった。
――詰め込みはつらいだけではなくて、得られる知の範囲も狭い?
東 ぼくはミステリーやSFもかなり読んできたけど、それだって知識を蓄えていくだけのものではないと思うんですよね。ミステリーやSFの魅力がわかることは、それらを好きなひとたちのことがわかることとつながっている。一人で動画を見るだけではダメなんです。修行みたいな知識の入れ方には限界がある。
上田 わたしはまったく逆というか、もともと鍛えようとしてこなかった。本は好きだったけど、好きな著者の本を全部読んでしまうのがもったいなくてできない。シリーズで5冊出ていたら、最後の1冊は1年後に取っておく、みたいなことをやっていましたね。だから東さんみたいにちゃんと鍛えていれば、もっと冊数を読めたのかもしれないな。
東 若い頃の話ですよ。今はその片鱗はない。本だけから得た知識が実は違ったという経験が何度もあって、本だけたくさん読んでわかった気になってはいけないと思うようになった。当たり前のことですけど、ぼくはそれに気づくのにかなり時間がかかった。
――会社経営なんて、その最たるものですね。
東 そうですね。今は上田さんに代表を務めてもらっているから大丈夫だけど、会社経営はじつにやばかった。上田さんはぼくよりはるかにまともな人間なんですよ。そもそもぼくが経営していたときは社内がギスギスしていた。それがなくなっただけで、経営はV字回復ですよ。上田さんは社長業の才能があると思うな。
上田 東さんのほうが経営も当然できるんですけど、わたしのほうが地に足が着いてるという話だと思います。「それはちょっとむずかしいのでは?」ということを阻む、そんな嫌な役割ですから(笑)。
東さんには理想があるというか、自分のなかにやりたいことの地図をパッと描けるんですよ。でもそれを現実世界に対応させるには、高低差を考えたり等高線を引いたりしないといけない。天候の影響も考慮しますよね。だからピシッとしたすばらしいプランも、結局現実に当てはめて崩していかなきゃいけないわけで。東さんは昔はそういうことが苦手だったかなと思いますけど、今はそんなことないですよ。
東 今は非現実的なことを言っても通らないですからね。いずれにせよ、学びにはやはり身体性が大事ということです。ぼくは最近、本当にそう思います。本を読むだけではダメだと。昔読んだ本を読み直すと、昔よりもよく読めるんですよ。
――と言いますと?
東 言葉は記号的にそこにあるのではなくて、いろいろな現実と結びついています。そのことが想像できるようになると、同じ文章でも読み方はぜんぜん変わってくる。これはだれにでも言えて、今ウクライナで戦争が起きていますが、その事実があるだけで、戦争について書かれた本の読み方は大きく変わっていると思います。戦争という単語一つを取っても喚起力が大きく変わってくる。言葉というのは、こちら側に想像力がないと何も訴えかけてくれないものですから。
教養のある友だちをつくろう
――東さんは『ゲンロン12』の「無料は世界をよくするのか」という座談会で、クリス・アンダーソンの『フリー』を引き合いに、コンテンツの画一化に対する危惧や環境の多様性の重要性についてお話しされています。教養でいえば、最近はYouTubeやSpotify、Audibleなど、教養系の動画や音声コンテンツが増えています。この状況は多様と言えるでしょうか。
東 その場合の環境というのは、受け手と作り手がつくる生態系を意味してます。大事なのはその生態系の多様性で、技術的な多様性は決定的じゃないと思っています。シラスのようなコミュニティは、本質的には動画サービスじゃなくてもつくることができる。たとえば雑誌の文通欄は、シラスにかなり似ていたはずです。つまり、受け手と作り手によるコミュニケーションがどういう生態系をつくるかなんです。
人間と人間の関係の設計の仕方であって、その考えかたがあって、つぎにどんな技術でそれをサポートするかという話になる。人間同士の関係の設計を考えず技術主導でサービスを開発しているかぎり、どんなに新しい技術が登場しても、みんなのっぺりとしてしまうのではないかと思います。
――シラスはそのほかの教養系コンテンツとは設計が違うわけですね。
東 シラスは教養系コンテンツというより、教養系「コミュニケーション」サービスでしょうかね。ここはむずかしいところで、教養はふつう知識の問題だと考えられている。でもほんとうは、先ほどからくり返しているように「態度」の問題なんです。大事なのは教養ある態度を身につけること。だから、知識を効率的に頭に叩き込むことで教養に近づくというのは、まったく間違ったルートなんですよ。参加者を、教養に開かれた態度に向けてどのように導いていくかを考えないといけない――つまり人生修行のサービスみたいなものですね。
――教養は人生修行だった……!?
東 そう、人生修行。月額6000円で人生修業(笑)。
上田 とはいえ修業感はそんなにないような。環境について言うと、ゲンロンカフェみたいな場所はたくさんあるし、シラスのような動画だってたくさんあるんですよ。わたしは今ならロシアとウクライナ関連の動画をいろいろ見ていますけど、動画を見るだけだと、その行為に飽きてくるし、頭も疲れてしまいます。
なぜなら、そこにはなんの交流もなくて、それこそ修行みたいな感じだから。でもゲンロンカフェやシラスの場合、それが単なる修行にならないような設計なんです。実際に現場に行くこともできるし、コメントで参加することもできる。同じように見ている人たちが可視化されていて、YouTubeのコメント欄とは違って、交流が起こっているのが見えるんです。
東 シラスの番組を見て、コミュニティに入って、交流することで元気になったり、楽しい人生になることが大事なんですよね。教養はそういう楽しさのためにある。ビジネスでマウントを取るためにあるわけじゃないんですよ。
教養のある・なしは、教養があるような生き方ができるかどうかでしかない。そうなってくると、自然と生活や友人も変わっていく。結局はそういう話なのか、みたいな感じだと思いますけど、結論としては、本を読んでいる人がたくさんいるところに行くと、本を読んでしまう、そういうことが大事なんだと思います。ゲンロンとシラスでは、なるべくそういう環境をつくろうと思っている。
上田 まわりに本を読んでいる人がいない環境ってたくさんあるんです。わたしも子どもの頃はそうでした。孤独でも本が好きだからひとりで読み続けている。だからこそ本を読むひとたちと出会ったときにすごくハッピーになれる。
東 人間は仲間や友だちを見つける動物なんですよ。一部の知識人はそんなのはいらないと言うけど、それは彼らの頭のなかにある人工的な人間像でしかない。現実として人間は仲間や友だちを求めている。だから、本を読む仲間が欲しいとか、いろいろ学んでいる仲間が欲しいと思っているひとたちに対して、どのようなサービスを提供するかっていうのは、今の時代に教養を広めたいのだとすればきわめて現実的な解で、そんなめんどうなサービスなんて必要ない、知識だけを効率よく与えたほうがいいんだという主張のほうがよっぽど非現実的に聞こえます。
でも、なぜか今はそちらのほうが優勢なんですよ。「学校なんかいらない」と言うひとがもてはやされる。でも、それは彼らがそう信じたいだけで、現実とは関係ないと思いますね。学校に行かなくても、ネットで情報をどんどん吸収し、それによってイノベイティブでクリエイティブな感じの人間が出てくる。それが彼らの理想だというのはわかるけど、現実はそうは動いていないと思う。
――それに感化されるひとが多いというのは?
東 現実と虚構の区別がついてないということじゃないかな。
上田 現実の世界はめんどうくさいものです。効率を追求して、人との関わりはいらない、場は必要ないというような主張をするひとは、そうしためんどうくささをいかに避けるか、みたいなことを考えているんだと思います。でも、ひとは現実世界に生きているのであって、それを拒否することはできないですよ。
東 この件に関しておもしろいと思うのは、つい20~30年前まで、ひとはみんな飲み会に行くことになっていた。そんなの非現実的で、だれもが飲み会に行きたいわけではないというのはまったくそのとおりだと思うんですよね。だからこそ、ぼくだって『動物化するポストモダン』を書いて、「オタクよ、おまえたちの生き方も正しいんだ」と呼びかけたわけ。そうしたら今は人はみなオタクでひきこもりで、飲みに行かないことになったんですよ。それはそれでとても非現実的だろうと思います。だからぼくの立場も変わってきた。みんな、とても観念的な議論をしているんですよね。
というわけで、今ぼくたちは、人と会わず、テレワークで仕事をして、情報はYouTubeで取る、そんな生き方が正しいと思いこんではいるものの、でもなんか違うな、満たされないなと感じているひとたちに向けてサービスを提供しているわけです。
――そこでノーと声を上げるわけではなかった。
東 ノーと言うと、今度はノーと言ってほしいひとたちの神輿になるだけだと思います。結局のところ、現状に対する有効な抵抗は、別の空間をつくることしかないと思うんですよ。一方にポリコレのひとたちがいて、他方にポリコレ反対みたいなひとたちがいる。どちらにつくということではなく、そんな区別をあまり気にせずしゃべれる空間をつくることのほうが実際的な解決だと思いますね。
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取材後の撮影中、長年気になっていたことを東さんに聞いてみた。
――東さんの著作やテクストでは「僕」ではなく「ぼく」ですよね。何か漢字をひらく理由があるんですか?
東 文芸業界では、漢字ではなくひらがなを使ったほうが上品に見えるんですよ。逆にエンタメ系だと漢字が多くなる傾向がありますね。「所謂」など副詞にその傾向が強く見られます。「僕」に関していえば、「しもべ」とも読むという理由から漢字を避ける人もいますよ。
なんとなく漢字に変換しがちな人は、少し気に留めておいてもいいかもしれない。
(①はこちらから)
シラス