トヨタは『モータースポーツを起点とした、もっといいクルマづくり』に取り組んでいる。その成果の第一弾が2020年9月に発売したGRヤリスであり、第二弾が2022年4月に発表したGRカローラだ。2021年5月からは、スーパー耐久シリーズに水素エンジンを積んだGRカローラを投入しており、レース活動を通じて得られた知見がGRカローラ市販バージョンの開発に役立ったという。
■マイナスからのスタート。「開発はまだ始まったばかり」
「モータースポーツを起点とした、もっといいクルマづくりは軌道に乗ったのか」と、開発に携わる技術者に話を振り向けてみると、予想に反して否定的な言葉が返ってきた。
「まだ始まったばかりです」と話すのは、GRカローラの開発に携わる坂本尚之氏。GRヤリスの開発に携わる齋藤尚彦氏は、「富士山に登っていると6合目あたりに雲がかかって上が見えないじゃないですか。あんな感じです。ようやく登山用の靴が履けたかなという状態で、山はこうやって歩けばいいんだと。ようやくやらせてもらえるようになった段階です」という。開発に携わる当事者としては「始まったばかり」の認識で、ゴールがどこにあるのか見えてもいない状態のようだ。
モリゾウこと、豊田章男社長からGRヤリスの開発指示が出たのは2016年のことだった。2017年に先行開発初号車が完成。全日本ラリーチャンピオンの勝田範彦選手が雪道で走らせた。プロドライバーの意見を開発に生かそうというわけだ。
「4WDを作ってきたというので、楽しみに乗ったんですけどね。全然言うことを聞かないやんちゃ坊主でした。自分が思うところに全然行ってくれない。まったく逆に行ってしまうこともありました」
開発側は「初めてにしては、いいのができた」と自信を持って送り出したのだという。それだけに「ゼロからではなく、マイナスからのスタートでした」と齋藤氏は振り返る。
同じタイミングで、レーシングドライバーの石浦宏明、大嶋和也両選手にも開発車両に乗ってもらった。舞台は富士スピードウェイのショートコースだ。大嶋選手が当時の様子を語る。
「レーシングスピードでコーナーに飛び込んで、そのまま何もできずにコースアウトしました。その後、半日乗りましたが、1回もクリップにつけないし、まったくコントロールできませんでした。本当にこのクルマできあがるのか? と不安になりました」
石浦選手も同様の感想を抱いた。
「普通に走るだろうと思っていたのですが、4WD以前の問題で、限界域でタイヤの接地感がすっぽ抜けて走れないクルマでした。いろんなクルマをサーキットで走らせたことがありますが、限界域ほどメーカーの考え方や味が出てくる。(先行開発初号車は)それ以前で、限界域ではまったく走れない状態でした」
4WDもダメなら、シャシーもボディもダメ。ブレーキもダメ。エンジンもアクセルで微妙なコントロールができる状態ではなく、要するにダメだった。技術的にダメなだけでなく、開発の仕方ができていなかった。
「富士のショートコースを走ったときに、僕らがコメントを言って、その日はそれでおしまいでした。次のテストまでに何かやってきます、みたいな……」と石浦選手。レースの世界での開発に慣れている石浦選手にとっては、拍子抜けする対応だった。
■現役レーシングドライバーの本気がGR開発チームの根本を変えた
そんな時間軸で開発を進めていたのでは先に進まないと危機感を抱いた石浦選手は、自分が感じたことをレポートにまとめて送るようにした。のちに関係者の間で“石浦レポート”と呼ばれることになる行動は大きな効果を生み、問題点を関係各部署で共有できるようになったという。
「面と向かっては言いにくいことを、めっちゃ書きました。現場でエンジニアの方に話すと、伝言ゲームになって担当部署に伝わる。そうすると中身が薄まってしまいます。僕がレポートを書いたら、『初めて見た』という方から連絡が来たし、それまで会ったことのない人から話かけられることも出てきました」
開発陣からすれば、レーシングドライバーは意見をくれるお客さんの認識だったが、一緒にクルマを開発する同志にならなければうまくいかない。当初はドライバーからの意見を受け取っても、「プロのドライバーが乗る領域だからしょうがない。市販車の領域じゃないから」(齋藤氏)と、自分たちに言い訳をしていたという。
「サーキットやダートで評価すると、部品が壊れるんです。モリゾウさんが乗ってクルマが壊れたときも、『号口(トヨタ用語で『市販車』の意)では問題ありません』ときっぱり言うようなエンジニアでした。そのモリゾウさんが『レースに学びなさい』と、我々に言いました。それは何もクルマの性能を上げるためだけではなく、僕ら社員の意識やエンジニアリングの仕方をレースから学びなさいという意味です。実際、ドライバーの方々には、根本から変えていただいたと思っています」(齋藤氏)
勝田、石浦、大嶋のレーシングドライバーとスーパー耐久シリーズへの参戦と並行して市販車の開発を一緒に進めるうち、GRの開発チームは「次までに何かしてくる」(けど、あまり変わらないこともある)組織ではなく、「その場で対処する」組織に変わっていった。その成果がGRヤリスであり、GRカローラなのだが、前述したように、齋藤氏に言わせればようやく「登山靴が履けたかな」という状態。頂上(ゴール)はまだ雲に隠れており、見てもいない状態だというのが、当事者の認識である。
「タイムのためにやっているんじゃないと、めちゃめちゃ怒られたことがあります」と、齋藤氏はモリゾウ氏とのエピソードを打ち明ける。しかし、タイムを計測しないわけではない。何か変更したときにドライバーが踏めるようになると、タイムとして反映されるからだ。定量的な評価をする指標として、タイムは重要。だが、目標ラップタイムを定めた開発は行わない。
「路面からのインフォメーションがしっかり感じられて、思うようにクルマが動くことが大切」と坂本氏は言う。「そういうクルマを作れば、自動運転車を作った際もコンピューターが制御しやすいし、自動運転モードにした状態でもフラフラせず、安心して乗っていられる。『クルマ屋じゃないと作れないクルマを作れ』とモリゾウさんは言っていますが、同じ自動運転のクルマを作るにしても、自動車会社が作るクルマは安心だよねと。私たちの活動がそういうところにつながっていけばいいなと思っています」
トヨタが取り組む「モータースポーツを起点としたもっといいクルマづくり」とはつまるところ、人に優しく、かつ、人を楽しませるクルマづくりということだ。