過去31回あった鈴鹿サーキットでのF1日本GP、ドライバーの国籍別勝利数1位はドイツで、ミハエル・シューマッハー、セバスチャン・ベッテル、ニコ・ロズベルグの3人で計11勝をマークしている。2位は7勝のイギリス。そして4勝で3位に並んでいるのがブラジルとフィンランドだ(数字は手元調べ)。
上位4カ国はいずれも優勝者3人。今回はフライングフィンという伝統的“尊称”で知られるフィンランド勢を取り上げるが、3人のうちのひとり、バルテリ・ボッタスは前々回に登場しているので、残り2名の紹介となる。
全16人の鈴鹿F1ウイナー、最後に登場するふたりは、2度の戴冠がいずれも鈴鹿のミカ・ハッキネンと、2005年に歴史的劇勝を演じたキミ・ライコネン。フライングフィンは鈴鹿でも印象強烈な存在だ。
(※本企画における記録等はすべて、それぞれの記事の掲載開始日時点のものとなる)
■1998、1999年ウイナー:ミカ・ハッキネン
1998年、ハッキネン(マクラーレン・メルセデス)とミハエル・シューマッハー(フェラーリ)のドライバーズタイトル争いは最終戦日本GPにもつれこんでいた。優位なのはハッキネンで、鈴鹿で2位以上ならば自力王座という状況である。しかし予選ではシューマッハーがポールポジションを奪う。ハッキネンは予選2番手。
決勝スタートにいつも以上の注目が集まったことは言うまでもない。だが、後方のマシンのストールによりフォーメーションラップをやり直した後、今度はポールポジションのシューマッハーのマシンがストール……。シューマッハーはグリッド最後方発進になってしまった。
この時点でドライバーズチャンピオン争いにおけるハッキネンのアドバンテージが一気に大きくなったことは言うまでもないだろう。シューマッハーは懸命の追い上げを見せ、レース中盤には3番手まで上がるが、後方のアクシデントによって出たデブリを踏んだことが原因とみられるタイヤバーストでリタイア。この瞬間、ハッキネンの初タイトル獲得が決まったのであった(マクラーレンのコンストラクターズタイトル獲得も決定)。
F3時代からのライバル、シューマッハーのリタイアによって自らが王座に就いたことをコクピットで知ったハッキネンは、こう思ったという(レース後の談話より)。
「2年前のデイモン(ヒル)と同じような状況になった(1996年、ヒルはライバルのリタイアで最終戦鈴鹿のレース中に戴冠が決定。レースでも優勝)。僕も絶対にレースをフィニッシュ(優勝)したかった」
ハッキネンは鈴鹿初優勝も飾って、自ら初タイトルに花を添えるのだった。
1991年のF1デビューから8年目、悲願達成の部類に入る王座獲得であっただろう。頂点に至る長き道程では、終盤3戦のみの出場だった1993年の鈴鹿でF1初表彰台の3位、ということもハッキネンにはあった(当時はマクラーレン・フォード)。一緒に表彰台に上がったチームの先輩アイルトン・セナ(優勝)と同じく、日本とは縁の深いドライバーなのだ。
初戴冠の翌年、1999年もハッキネンは最終戦鈴鹿で戴冠する。
この年はシューマッハーに負傷による長期欠場があり、エディー・アーバインがフェラーリのナンバー2からナンバー1に繰り上がって、シューマッハーのかわりにハッキネン(マクラーレン・メルセデス)の対抗馬となった。最終戦鈴鹿はアーバインがポイント先行しての臨戦。ただ、ハッキネンは優勝すれば自力逆転戴冠が可能だった。
予選ではシューマッハー(復帰2戦目)がポールポジションを獲得。しかしハッキネンは決勝スタートで2番グリッドからシューマッハーに先行、首位に立つ。そして優勝を飾り、2年連続のドライバーズタイトル獲得を決める。鈴鹿での勝利も2年連続だ。前年はレース中に王座が決まってからの優勝だったが、今度は優勝が王座に直結する格好となった(この年のコンストラクターズタイトルはフェラーリが獲得)。
ハッキネンの通算2冠はどちらも鈴鹿戴冠。複数回のドライバーズタイトルを獲り、その戴冠地がすべて鈴鹿というのはセナ(3冠)とハッキネンだけである。
そして2年後の2001年、ハッキネンはF1引退に近いニュアンスで翌年からの休養を宣言。最終戦鈴鹿が“F1ラストラン”の舞台になった(実際にF1復帰はなかった)。
最後の鈴鹿は4位。ハッキネンは終盤、マクラーレン・メルセデスの僚友デイビッド・クルサードに3位を譲っているが、その主な理由は自身の援護役にまわることもあった長年のチームメイトへの感謝だったとされる。だが、ハッキネンの“心の声”がこう言っているようにも(筆者個人には)感じられた。今日はもう表彰台には上がらずに去りたいんだ──。
日本のファンにも大いに愛されたフライングフィン、ミカ・ハッキネン。彼は鈴鹿で、その翼を静かにたたんだのである。
■2005年ウイナー:キミ・ライコネン
2005年シーズンは、「レース中のピットストップでは原則としてタイヤ交換禁止、給油はOK」という極めて珍しいレギュレーション環境で競われたシーズンだった(タイヤは予選~決勝で原則1セット)。
F1のタイヤは1997~1998年のグッドイヤー対ブリヂストン(BS)、1999~2000年のBSワンメイク期を経て、2001年からBS対ミシュランの時代になっていた。そして2005年はミシュランが大きな優勢を確立し、ミシュラン勢のフェルナンド・アロンソ(ルノー)とキミ・ライコネン(マクラーレン・メルセデス)が頂点を争うことに。
安定感に勝るアロンソがタイトル争いをリードし、アロンソの初王座は鈴鹿の前戦ブラジルGPで決まる(コンストラクターズタイトル争いは鈴鹿の次の最終戦中国GPまでもつれた末にルノーが制す)。
当時(2003~2005年)の予選はシングルカーアタックを根幹として微変更が続いていた時代だったと記憶するが、鈴鹿の空模様の変化が“1台ずつ順番にアタックする予選”に過剰ともいえるスパイスを混ぜ込んだ結果、2005年F1日本GPのグリッドは意外な仕上がりとなる。
なんとアロンソは全20台中の16番グリッド、ライコネンも17番グリッドということに……(ライコネンは金曜にエンジンブローからの交換があり、10グリッドダウンのペナルティを受けていたが、結果としてはペナルティが実質無効化された格好で予選順位=グリッド順位だった)。
ドライの決勝、もちろんアロンソとライコネンは追い上げていくことが予想されたが、さすがに表彰台は難しいのでは……と思った人も多かっただろう。でも、この年の主役両名の力はそういう次元にはなかった。
王者アロンソは3位表彰台でレースを終える。そして準王者ライコネンは終盤41周目に首位となり、45周目のピットストップで一旦2番手に下がるも、なんと最終ラップのオーバーテイクで再びトップに立って優勝という、あまりにも劇的な“16台抜き大逆転勝利”を成し遂げるのであった。
最終ラップに入るホームストレート、ライコネンは首位ジャンカルロ・フィジケラ(ルノー)の背後に迫ると、1コーナー手前でアウト側に出て豪快に抜いていった。繰り返すが、あまりにも劇的で、あまりにもカッコいい勝ち方だった。セナとアラン・プロストの時代が遠くなった今、鈴鹿F1名勝負の最大公約数的な1位は、おそらくこの2005年だろう。
ルノーに乗っていて3番グリッド発進から敗れたフィジケラのことを思うと……という面もあるが、劇的度マックスな勝ち方だったことは事実。ライコネンは鈴鹿に集まったファンにF1の魅力を存分に見せつけてくれた。オーバーテイクシーンを直視できた席の人のみならず、彼が上がっていく過程を見られただけでも満足度は高かったはずである。
コロナ禍で日本GPが開催されていない間にライコネンはF1を引退してしまった。鈴鹿でのお別れができなかったのは残念だ。ただ、いつの間にか居なくなってしまうというのも、愛される無頼漢ライコネンの去り際としては『らしくてカッコいい』、そんなふうにも思えてしまうから不思議である。
ちなみに“フライングフィン”という言葉は、モータースポーツ界で生まれた言葉かと思ってしまいがちだが、起源は他のスポーツにあるらしい(諸説あり、かもしれないが)。ただ、F1では少数精鋭、ラリーでは多数精鋭でいずれでも高い存在感を示してきただけに、我々は「今やモータースポーツを中心にフライングフィンの伝説は紡がれている」、そう感じてしまうところである。一概には言えない面もあるかもしれないが、決して間違いではないだろう。