WEC世界耐久選手権に参戦中の気になるドライバーたちを取り上げてきたこのコーナー。第6回目にして最終回となる今回は、番外編としてユナイテッド・オートスポーツの共同オーナーであるリチャード・ディーンを紹介したい。
現在マクラーレン・レーシングCEOともなっているザク・ブラウンとともにチームを運営しているディーンはイギリス出身の元レーシングドライバーで、1993年にはチーム・ルマン、1994年には東名スポーツ・オペルから全日本F3に参戦。1994年には、チーム5ZIGENから全日本F3000、1995年にはジャラーナBPダンロップBMWでJTCCの最終大会にもスポット参戦している、日本に馴染みのある人物だ。
日本のレースに出場している時には、他の外国人ドライバーと同様、御殿場在住だったディーン。約30年が経過し、ディーン自身も56歳で迎えた今回の富士戦で、当時の様子について聞いてみた。
■トム・クリステンセンとの共通項
「ちょうどヨーロッパでキャリアの壁にぶち当たって、選択肢がないという時に、エイドリアン・レイナードから『日本のチーム・ルマンが何人かドライバーのテストをするから行ってみないか?』と言われて、初めて日本に来たんだよ」
「確か2月か3月だったと思うけど、その時に筑波でF3のテストをした。それがうまく行ってシートを得て、次は鈴鹿でテストをしたんじゃなかったかな」
「レースに関しては、日本もヨーロッパも大きな違いはないからサーキットでの活動にはすぐに馴染めた。でもいったんサーキットの外に出たら、道路標識も読めないし、食べ物も違うし、TVでも何を喋っているか分からないし、ビックリすることだらけだったね」
「それに、ヨーロッパと違って、日本ではテストが少ないから、レースとレースの合間、ドライバーたちはあまりやることがないんだ。ただ、当時日本には、F3やF3000、ツーリングカーなど、いろいろなカテゴリーにヨーロッパのドライバーがいて、全部で20人ぐらいいたと思う。それがすごく助けになった」
「みんなで御殿場駅前にある小さなピザ屋で会ったり、一緒にトレーニングしたり。中でも、トム(・クリステンセン)とは仲のいい友人同士だったよ。F3000に出ているドライバーたちはいい契約金をもらっていたから、時間があるとヨーロッパに戻っていたけど、僕とトムはスポンサーシップもなかったし、ポンと飛行機代を簡単に出せるほどお金も持っていなかった。だから、シーズン中、滅多にヨーロッパに帰れなかったんだ」
「だから、ふたりでラケットボールをしたり、自転車に乗ったりしていた。唯一英語で記事が書いてあるジャパンタイムスを買いに行ったりね。トレーニングしない日は、チームのガレージに行って、データを見たりしていた。勉強のためにね」
■6歳年下のザク・ブラウンとの出会い
その後数年を日本で過ごしたディーンは、イギリスに帰ると、ドライバーを続けながら、安定的に収入を得られる道を探ることになる。若い時は、レーシングドライバーとしての夢を叶えられるなら、たとえ車中泊をしてでも頑張れた。しかし、彼にはすでに娘・アシュレーがおり、生活という面での責任が増していたのだ。
あと何年ドライバーとして活動をし続けられるか考えた時に、何か仕事をしなければならない。そんな時、チームを運営する機会が訪れた。
「僕がカート時代からずっとお世話になってきたJLRというチームがあって、イギリスに戻った時にオーナーに挨拶に行ったんだよ。そうしたら、彼がひどいガンにかかって入院中だったんだ。それで、僕は彼が退院してくるまで、何とかチームを運営しなきゃということで手伝い始めたんだよね」
「でも、残念なことに病状が回復しなくて、彼は亡くなってしまったんだ。遺された家族は、そのチームを引き継いで運営して行く気がまったくなくて。それで僕がJLRを運営していくことになったんだ。それが現在はユナイテッド・オートスポーツに名前を変えて続いているんだよ。僕がチームを引き継いでから、ずっと一緒に仕事をしているメンバーもたくさんいるんだ」
と、ここまで話を聞いて、気になったのはチームの共同オーナー、ザク・ブラウンの存在だ。彼はいったい、いつどのようにして、ディーンと関係を持ち始めたのだろう。実は、今回のインタビューで最も面白かったのが、この話だ。
「日本でレースを始める前のことだけど、僕はドニントン・パークで開催されていたジム・ラッセル・レーシング・スクールの講師のひとりだったんだ」
「その当時、ジム・ラッセルには『集中コース』みたいなものがあったんだ。ただサーキット走行を体験したいとか、そういう人向けじゃなく、本当にこれからレーシングドライバーになりたいと熱望している生徒に対して、マン・ツー・マンでゼロから1週間集中的にトレーニングして、レーシングライセンスを発行するんだ」
「最終日にはそうした生徒同士でレースをするんだよ。そのコースに1991年、僕の生徒として18歳のザクが来た。彼は1週間のコース後、レースでもなかなかいい成績を出したんだよ。でも、普通はそこで『さようなら』で、生徒と会うことは2度とない」
「ところが、ザクはアメリカ人で、ヨーロッパに来たのも初めてだったし、誰も他に知り合いがいなかった。それでもヨーロッパに留まってレースがしたいから、『君は僕を助けなきゃダメだ』って言い出して、僕のアパートのソファで寝るようになったんだ。そこからはアパート代を折半して、一緒に暮らしていたんだよ」
「その後、彼はヨーロッパでレースをしていて、僕は日本に行くことになったんだけど、イギリスに戻った後は、彼と再び一緒に家を借りて暮らし始めた。当時、彼は最初のビジネスとして、モータースポーツに特化したマーケティング会社を立ち上げたんだけど、仕事場はその家のキッチンだった(笑)」
「そのビジネスがすごくうまくいって、彼はロンドンの大きなマーケティング会社に、会社を売ったんだ。それがJMI・Just Marketing Internationalなんだよ。そんな風に、僕らの間には長い歴史があって、2009年からは一緒にチームを運営しているんだ」
いまでは、LMP2のトップチームの一つとして存在感のあるユナイテッド・オートスポーツ。今後、多くのマニュファクチャラーがLMDhカーでWECやIMSAに参戦を開始するが、彼らもどこかのマニュファクチャラーと組んで、さらに活動の幅を広げるのだろうか。今後の活動に注目していきたい。